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三国無双─後期伝─キボンヌ陸

1 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/09(日) 00:07:35
諸葛亮の薨去から晋の統一まで、三国志後期時代の総合スレです。
初代スレが立った当初は三国無双の後期版を考えていくスレでしたが、
スレの進行とともにその時代の人物・戦役・文化などの考察を行っていくようになりました。
ステージやキャラモーションなどの無双の案ももちろん随時お待ちしています。
三国志後期(正史、演義とも)について語りたい人もどうぞご利用ください。

《前スレ》
三国無双─後期伝─キボンヌ伍
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1187622133/
【天震】三国無双─後期伝─キボンヌ肆【地駭】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1171100401/
【黄昏】三国無双─後期伝─キボンヌ参【黎明】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1138375230/
【盛者】三国無双―後期伝―キボンヌ弐【必衰】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1117024613/
三国無双―後期伝―キボンヌ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106584453/

《参考リンク》
孔明死後の三国志に関する若干の考察
http://ime.nu/blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini

※スレの住人さんが管理をされているブログ。
とても詳しく考察をされています。

2 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 00:31:22
良スレ立てんな芋虫氏ね

3 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/09(日) 02:40:01
立てたは良いが、適当な話題が見当たらん。

俺の場合、その嗜好ゆえに考える事が軍事に偏ってしまうしね。

大した話じゃないが、諸葛誕の反乱に際しての朱異の行動とかは、個人的には全く評価できないね。
と言うか、朱異自体をあまり高く評価していない。
安豊で三万もの軍を率いていながら、真っ直ぐに寿春へと向かい、
孫綝と協調する事無く河川への直接的な攻撃を行い、失敗して追撃され、多数の被害を出している。
孫綝と合流した後も、今度は黎漿水に対する直接的な攻撃に終始し、
最後は敵の迂回と物資集積基地の破壊を受けて撤退を余儀なくされている。

ただ、こういった事から分かるのは、やはりリデルハートの言うとおり、
安易な直接アプローチは、間接アプローチの前に容易に敗北を喫するという事だろうね。

諸葛誕の乱に関する話じゃないけど、朱異に関連してよく分からない事がある。
朱異の伝では、注釈の呉書に諸葛恪が合肥新城を攻囲した時の事が書かれてて、
その時の朱異の献策が、「軍を豫章に向かわせれば石頭城を突破できる」というものがある事。
石頭城では建業に向かう事になってしまうし、豫章という記述と合わせると、
これは石陽城の間違いなんだろうか?
陽と頭を混同する事があるのかどうかはしらんけど。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 05:49:24
陸遜のヘソ出しはいい加減やめてほしい

5 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 08:01:35
大軍を率いている場合、複雑な行軍経路を取れないんじゃないかねー。
規模を適度にdivisionして有能な部下に任せてればもっとスムーズにことが運んだかもしれん。

6 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 08:12:15
落ちて暫くしていたけど、新スレが立ったんね

とりあえず>>1
また存分に語ってもらいたい

7 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 09:00:14
>>1
三国志の大まかな部分はよくゲーム化されたりして有名だが
後期の事をあまり知れないので自分にとってはすごい有用なスレです
特に後期の呉なんかすごく興味深いです

8 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/09(日) 13:12:59
>>6-7
どうも。
ただ、理想としては、俺がいようがいまいが活発に議論されてるってのが望ましいんだけどね。

>>5
複雑と言うか、朱異が安豊に存在しているというだけでもだいぶ違ったと思う。
魏は、王基らを前衛として寿春に派遣し、包囲陣地を築かせると共に、
司馬昭が皇帝を伴ってまず項まで進んで諸葛誕攻略の態勢を築き始めた。
その後、司馬昭は漸次前進して丘頭、寿春に至ったのだけれど、皇帝は未だ項にあった。

諸葛誕は文欽ら呉軍と合体して十数万の戦闘員で籠城してた上、外部に呉軍があったから、
この包囲には最低でも17,8万、或いは20万以上が割かれていたはず。
とすると、項にあって皇帝を守るべき軍は5万を大きく超える事は無い上、
穎水を中心とした水運で絶えず寿春への補給が行われていたはず。
もし朱異が麾下の3万を以って淮水を渡河し、汝陽の辺りに出たとしたら、
魏としては皇帝の軍自らがこれに当るか、或いは包囲の軍から割いて当らねばならないし、
包囲の陣地は物資の欠乏に悩まされ、皇帝とも遮断されるので大いに狼狽したはず。

連絡線の遮断と内線の有利を享受できる絶好の位置にあったのに、
徒に敵を正面攻撃して敗れ、呉軍の攻撃を東方からのものに限定した事によって、
魏軍は東方に全努力を傾注すれば良いという単純な状況となってしまった。

孫綝との合体による戦力の増加が、かえって敵の更なる戦力増加を生み、
有利よりもむしろ不利な状況に自らを追い込んでしまったと思う。

9 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/09(日) 16:03:59
あまり意味は無いけれど、イメージを掴む為に計算してみると、

寿春近傍に20万人駐屯し、1人当り1日1.2リットルの穀物を消費するとすると、
1日に24万リットルおおよそ200トン程度必要になる。
戦国時代の秦が作った舫船は、50人と3ヶ月分の食糧を積んで航行したらしく、
これを、兵員の体重70kg、その諸装備20kgとして計算すると、積載量はおよそ10トン。
この舫船なら20隻強で1日分の穀物を運べるが、長江用の大型船を穎水で使う事はできないだろうから、
これよりは小さな船で運ぶ事になる。
大体半分の積載量の船を使ったとすれば50隻程だけど、1日分だけ運んでも仕方なく、
寿春近傍に数日から10日分の食糧を集積する基地を設けるとすれば、
数百隻の輸送船を絶えず動かしていなければならない。

恐らく、輸送量が膨大なので、淮水下流から徐州の、汝水と淮水を使って豫州の穀物なども、
寿春に向かって運んでいただろう。
いずれにしても輸送の多くは豫州を経由して運ばれていくと思うので、
安豊から北へ豫州方面に出る事で、包囲軍を強く締め付ける事ができたと思う。

包囲陣地への攻撃という直接アプローチではなく、その補給を締め付ける間接アプローチの方が、
より諸葛誕を助ける事になったと思う。
と言うか、諸葛誕側が勝利するにはそれしかなかったのではないかとも思う。

10 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/09(日) 23:55:54
なんだか俺ばかりが書き込んでるし、以前も言った事だとは思うけど、
少なくとも235年以降に活躍した将帥で、それも呉における最高の人物は、
陶璜その人であると考えている。
彼は戦闘においてはそう華々しい才覚を示す事は無かったし、
戦略においても失敗をしなかったわけではない。
けれども、彼は実に見事な、当時としては最も綺麗に決まった間接アプローチによって、
交州における呉の支配を取り戻している。

これは実に素晴らしい事だと思う。
俺は、ただその一点を以ってしても、陶璜が三国時代を通じて十指に入る名将に列せられると考えている。
ここまで陶璜を評価しているのは俺くらいなもんだと思うけどね。

多くの人に、諸葛亮が死んでからの時代にろくな将軍がいないと思われているのは悲しい事だと思うが。

11 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/10(月) 21:54:17
スレ終了

12 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/11(火) 00:45:04
まぁ諸葛亮死後の呉と聞かれれば陸遜、朱然、丁奉、陸抗あたりをまず挙げるだろうね。

陸遜や朱然はそれ以前の活躍の方が顕著だから対象外かもわからんけど。

13 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/11(火) 02:48:45
ある程度のレベル以上だと、優れた指揮官である事は分かっても、
誰と比較してどうだとかってのはよく分からなくなる。
ましてや、少ない記述から推し量るしかない場合は尚更だね。

だから、俺が陶璜を推すのは、結局は好みの問題になっているんだと思う。
例えば南北戦争のグラントとシャーマンは、どちらも有能な指揮官ではあるけど、
タイプは違うしどちらが上とも言い難い。
そういう場合に、自分自身がどちらを高く評価するかって言うと、
好みで評価するしかない。

俺の場合は、戦闘が巧みな指揮官がやはり好きだから、
巧みな戦術と指揮で会戦に勝利するのではなく、
どちらかと言うと戦略で勝利を得る事の多い呉の指揮官はそれほど好きじゃないんだな。


ところで、丁奉はそんなに評価が高いのだろうか?
個人的には、少なくとも史書を読む限りは、勇敢な部隊指揮官としては読めるけど、
大規模な軍勢を率いてはさほど有能さを感じられない。

14 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/11(火) 10:10:55
自慰もたいがいに

15 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/11(火) 10:13:08
単純に考えるとやはり消去法じゃないのかな。
呉の輝かしい時代を知る数少ない歴戦の宿将であり、
孫休のクーデターに協力した功臣という位置づけ。
呉末期になるとそもそも魏に対する大規模な軍事行動自体が少ないので、
彼を凌駕するような活躍を見せる場面がほとんどなかったし。
結局目立つ戦果を数多く挙げていた彼の評価が上がってしまう…みたいな。

16 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/11(火) 14:24:18
丁奉はそもそも政変がなければあのまま部隊指揮官として生涯を送ったろうし、
勇敢な指揮で名を馳せたことを、そのまま評価してやればそれでいいんじゃなかろうか。

勇敢さってのも単純だがやはり得難い存在だよ。
特に官僚化が進んだ軍隊にとっては尚更だと思う。

17 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/11(火) 15:07:02
丁奉って(たぶん)寒門で叩き上げって事からいけば極官はありえないほど高い
年功も影響はしてるだろうけど、やっぱり政変がモノをいってるんだろう

あとは政変までは政治の世界に余計な足をつっこまずにしっかり戦功をあげ続け
どの執政者にも疎まれなかったってのもあるんでしょ
上からすればこういう人物は叩き上げだけになおさら扱いやすいし

18 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/12(水) 00:00:46
勇敢さというのは身に付けようとしてもそう身に付くものじゃないし、
丁奉の場合、それが無思慮と結びついておかしな行動に走ったという事も無いので、
勇敢な武人という彼の評価は揺るがないと思う。

ただ、ハンニバル麾下で活躍したハスドルバドルを名将と呼ぶのには抵抗があるように、
丁奉を名将というくくりに入れるのは、個人的には抵抗がある。

それが彼にとって幸か不幸かは分からないが、孫綝誅殺に加担する事で位人臣を極めたのが、
一つの転機だったろうね。
その後に戦功を挙げられなかったところを見ると、分不相応だったのかもしれないが。
269年〜270年正月にかけての穀陽襲撃では、得る所が無かった上、
退路に当る渦口で牽弘に敗れているあたり、むしろ攻めさせられた感が強いしね。

19 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/12(水) 14:13:01
前に名前が挙がっていた朱異もそうだと思うけど、
国家的な観点で軍を動かした経験(才覚)のある人材が残っていなかったんだと思う。
目の前の敵を打ち破るとか、一郡を占拠して我が国の領土とするとかなら良いけど。
だから、功績を挙げて官位は上がるけど、後世の者からするとなんか物足りないのかな。
呉におけるそういう存在は陸遜が最後なのかな、やはり。

20 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/12(水) 23:52:30
例えば三国志ファンの間でも名将の誉れ高い朱然なんかも、
優れた働きをしているのは数千を率いて戦っている時。
麾下部隊に対する優れた指揮によって切り抜けてはいるけど、
簡単に退路を断たれたり、戦略レベルでは失点も結構ある。

呉では多くの場合、戦争の際は、自分の私兵を中心に指揮する事になるから、
国家戦略と戦術を養う事はできても、間の軍事戦略については、
その素養を身に付ける機会に恵まれにくいのかもしれない。

21 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/13(木) 08:38:31
そもそも恐らく数万人規模で攻めてきて、どうなったら数百人で行動中に奇襲を受けるハメになるのかとか、
魏・呉の史料にそれぞれ残る戦跡の、どれとどれが対応してるのかとか、朱然の行動は意外に謎が多い。

しかし「どちらかと言うと戦略で勝利を得る事の多い呉の指揮官はそれほど好きじゃない」なら、
有名な周瑜やどうやら一押しの陶コウよりもこういったタイプの方が当てはまるんじゃないの?
好きなのと評価できるのは別物、ってことも当然あるだろうが。

22 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/13(木) 11:49:53
好きかどうかで決めるのは、どちらが上か判断しづらい場合だけで、
好きなタイプの指揮官だけを評価しているわけじゃないからね。

それに朱然は、戦闘と言っても誰かの麾下であったりとか、
小規模なものであったりするんで、本当に好きな指揮官とは少し違うんだよね。
朱然は言ってみれば、カエサルではなく麾下の軍団長の、
ナポレオンではなくミュラやネイのような功績しか見えてこないし。

あと、本当に凄いと思った指揮官は、好きなタイプか否かに関わらず好きになる。
陶璜に関してはそんな感じだね。

23 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/13(木) 17:31:53
朱然とネイに通じるものがあるというのは判る。
Jominianと名乗るほどだから、こういったタイプの人間の能力に否定的な立場を取るのも当然なのかもね。
しかしここでネイについて語ってもしょうがないので、記述が錯綜する237〜246年の朱然について考えてみたんだが、
結論が出せない。

馬茂の乱との兼ね合いから、朱然伝にある246年の柤中侵攻はほぼ確実。
動かしようのない大舞台である241年の襄陽包囲と、その役者も呉側の朱然、魏側の司馬懿は間違いない。
夏侯儒の件とも年号・場所・人物ともに一致する。

となるとこれとは別に、朱然と胡質によって争われた戦いがあるはずなんだが、
237年の江夏と242年の樊城包囲と二度に渡って行われたと見るか、
孫盛の意見に従い年号・地名の誤りであって同一のものと考えるべきなのか…
しかし誤りとするなら随分と大胆な誤りだ。


24 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/13(木) 21:23:06
戦闘が巧みな、と言っても、優れた戦術手腕と、それを支える戦略手腕あっての事だからね。
例えば、アレクサンドロス大王やフリードリヒ大王みたいな。


で、朱然の話だけど、242年の記述はあくまで柤中の事しか書かれていない事を考えると、
241年の樊城包囲と同一と考えるのが良いと思うよ。
司馬懿に敗れ、三州口まで追撃されたとは言え、柤中に入っていた諸葛瑾らは残っていた。
敗北によって離散した軍勢を集結させつつ、せめてもの戦果として、
柤中近傍の民衆を拉致しようとしたのかもしれない。
その内、荊州刺史が退路を断たんと進んできた為、勇戦して突破しつつ、
分遣した諸部隊を集めながら撤退した、という運びと考えるのが自然かと思う。

ただ、夏侯儒がケ塞まで前進したという事は、司馬懿もそこまでは前進したはずなんだよね。
というと、ケ塞から三州口まで追撃した事になるけど、これは指呼の間。
であるならば、司馬懿の追撃は晋書や晋紀にあるような大きな戦果は挙げてないのかもしれない。
まぁ、沔水に追い落とされて多数の被害を出した可能性はあるけど。

25 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 00:02:44
>>24
胡質伝を見るに、「朱然が樊城を包囲してる最中に軽騎で接近し城内を安定させた」とのことだから、
その線でいくなら、ここまでは胡質は夏侯儒と同行してたと見るべきだろうね。
あるいは柤中における胡質の進軍が先にあり、この敗北のせいで夏侯儒が戦力不足に陥り進軍できなくなったか。
そういえば上で挙がっていた朱異がちょうどこの時朱然の部下として参戦し、活躍していたらしいね。

魏書明帝紀の表現も「司馬宣王に防がせた」止まり。
交戦して敵を破っていれば「之を破った」、将官クラスの敵将を討てば「〜を斬った」と明記するのが常だから、
まぁそういうことなんだろう。

26 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/14(金) 02:01:27
>>25
柤中は、漢族と異民族合わせて10万人も居住し、沃野でもあったから、
呉もここを奪う事にメリットを見出してたんだろうね。

柤中を襲うにしても、予め漢水の線で防御の為の態勢を整えてからでないと難しいので、
樊城の包囲に先立って朱然が柤中に入った可能性は低いと思う。
樊城が包囲されてから司馬懿の到着までに、樊城を攻めあぐねた朱然が、
戦力を柤中を掠める事に振り向けた可能性もあるけど、
蒲忠と胡質が数千ずつ率いている事を考えると、司馬懿の到着後と考えた方が良いだろうね。

ただ、胡質らは合わせて1万近い兵力だったろうから、勇戦しているとは言え、
僅か800しか率いていない朱然の前に易々と撤退するのも不自然なので、
或いは、襄陽・樊城の包囲が続けられている中、
朱然が(恐らく)峴山・中廬山辺りの谷間に少数で布陣している事を知った胡質らが、
それを攻撃しようと大きく敵軍を迂回して漢水を越え、朱然の退路を断った、という事も有り得るかもね。
で、朱然を撃破し切れない内に呉軍が戦力を集結して包囲されかかった為、撤退したのかもしれない。

そうすると、胡質は結構な戦略的手腕があった事になる。
仮に朱然を撃破できないにしても、呉軍は連絡線を遮断される事になるので、
胡質の行動によって樊城の包囲も自ずから緩むだろうしね。

27 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 11:09:48
241年ならそれこそ芍陂の全jらの軍も含めた同時侵攻だから、
朱然の樊城攻略と諸葛瑾の柤中占拠はほぼ同時のハズ。

また朱異の進言から朱然は包囲中、樊城周辺の陣容を掃討することで圧力を強めていたと判る。
柤中に限らず、一旦兵力の分散が行われていたのだろう(でないと朱然側の数が合わない)。

荊州刺史である胡質を中心に兵力1万未満なら、司馬懿の到着前であってもおかしくないのでは?
司馬懿の到着後に、一時とはいえまだ戦力の集中をかなえていないようではあまりに不用意だし(それでなくともだがw)、
第一そんな情勢なら司馬懿は戦力の小出しで様子見、なんてこともしないで一気に打って出るだろう。

司馬懿が出した軽騎=胡質というのも有り得ない話しではないけど、
その場合胡質伝の内容が先、朱然伝の内容が後と別けて考える方がいいのかも。

ただ呉主伝やらの時系列を見ても、そう長いこと陣を構えていたとも思えんのだが…

28 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/14(金) 15:59:21
夏侯儒がケ塞まで前進しているので、仮に胡質がそれに同行していたとすると、
迂回部隊はケ塞の駐屯していた軍から抽出していた事になる。
敵に対して少なかったという以上、夏侯儒の軍は精々2万程度だろう。
その中から1万も割くというのは、5万を率いる朱然の眼前で行うには危険だろうって事ね。

朱異の進言である「外囲を破った」という外囲が何を指すのかは分からないが、
樊城まで包囲している以上、漢水渡河作戦が行われたはずで、それに付随したものだと思っていた。

ただ既に述べたように、朱然が軍を広く分散配置していたなら、軍を分割するのもそこまで難しくないし、
胡質が迂回と退路遮断を司馬懿到着に先立って行ったという事は有り得る。

司馬懿到着後ってのは、司馬懿到着〜樊城解囲ではなく、樊城解囲後の話ね。
晋紀等にある朱然の大敗が大いに誇張されたもので、樊城解囲後もまだ相当な戦力を有していたなら、
漢水を遮断しつつ、柤中の劫掠を行えた可能性もあるので、
その劫掠中の朱然を襲った可能性を述べたものだね。

この戦役の一つの問題は、直後に諸葛瑾が死んでいる事なんだよね。
朱然も車騎将軍とは言え、諸葛瑾は大将軍だったから、実質はともかく、名目は諸葛瑾が総司令官だったと思う。
となると、撤退自体、諸葛瑾の病状悪化によってなされたのかもしれない。
当然、全jの不甲斐ない撤退など、戦況の悪化も原因だったろうけど。

29 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 16:48:49
234年
諸葛亮の北伐に応じ、荊州に侵攻し威勢を示すが途中召されて孫権に従い合肥包囲するも間もなく撤退。(衛臻伝)
孫権の合肥新城攻めの際に全jとともに左右の督に任じられたが、病が発生したことから取りやめになった。(朱然伝)

236年
2万を率いて江夏郡を包囲するも荊州刺史胡質ら救援に駆けつけると撤退。(明帝紀。胡質伝)

241年
5万を率いて襄陽郡樊城県を包囲するも司馬懿が出馬してくると撤退、追撃を受け被害を出す。(三少帝紀及び注。張既伝注)

242年(237年のまちがいじゃね?by裴松之)
祖中へ侵攻、兵力を分散したところを攻められるが兵800を持って撃退。(朱然伝)

246年
祖中に侵入し数千人を斬殺あるいは捕虜とした。(三少帝紀注)
再び祖中へ侵攻、魏の将李興ら歩騎6000に退路を絶たれるが夜襲で持って打ち破り兵を還した。(朱然伝)

30 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 16:56:25
241年
衛将軍全琮を淮南へ、威北将軍諸葛恪を六安へ、車騎将軍朱然を樊へ、大将軍諸葛瑾を柤中へ派遣。全琮は王?に敗れる。(呉主伝)

31 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 16:58:48
↑訂正

241年
衛将軍全jを淮南へ、威北将軍諸葛恪を六安へ、車騎将軍朱然を樊へ、大将軍諸葛瑾を柤中へ派遣。全jは王淩に敗れる。(呉主伝)
諸葛瑾死去。(諸葛瑾伝)

32 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 17:06:12
えっと、つまり、朱然伝の242年の記事は237年の戦闘を242年の戦闘と混同してる?ってことか?

33 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/14(金) 22:09:57
>>28
「あるいは柤中における胡質の進軍が先にあり〜」ってのは
胡質が衆人を振り切り先行したことで、
夏侯儒の軍が朱然に対してあまりに少なくなったのでは?という話しね。

諸葛瑾の死亡かぁ…
呉主伝を見ると四月に包囲し、五月に太子孫登が死去・魏側に救援が現れ、六月に撤退、閏六月に諸葛瑾が死去。
確かに関連を疑いたくもなるタイミングだけど、
やはり全jの撤退によって侵攻の失敗はほぼ決定的だったんじゃないかな。

34 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/15(土) 00:51:04
胡質伝にある「軽軍を以って赴く」というのは、その行動を「兵、囲に臨み」とあり、
やはり樊城の近傍へと前進した事を指してると思うんだよね。
そうならば、同様の目的を持って前進した夏侯儒と行動を共にしてないわけは無いんじゃないかと。
胡質伝にある内容に先立って朱然伝の胡質の行動があったという可能性もあるにはあるが、
都督と行動を共にせず、独断で敵の後方深くまで前進するような事があるだろうかという疑問もある。

結局は、記述が少なくて結論は出ないんだけどね。

全jの撤退に関しては、それが行われて以降も樊は厳しく包囲され、
にも関わらず東方にあった軍を荊州に集結させるような事も無かったから、
ほぼ独立した戦場になっていた感がある。
呉のもともとの計画に、揚州に魏の中軍をひきつけ、その間に荊州を攻略する、という意図があったなら、
全jが敗れ、司馬懿が動いた時点で戦略は破綻していた事になるけどね。

実際、どちらが助攻でどちらが主攻だったのかは、史書からは明らかにできない。
ただ、全jが撤退しても尚、荊州を攻撃していた事を考慮すると、
あくまで目的は荊州にあったのかもしれないけど。

35 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/16(日) 00:54:02
この戦いにしてもそうだけど、全jは消極的に過ぎるように思える。
慎重さを持つべきではない、とは言わないが、大胆でない将軍は決して名将にはなれない。

この戦役において、少なくとも芍陂到着からしばらくの間は、
孫礼麾下の少数の兵しかいなかった。
都督の王淩が戦力を掻き集めて来援するまでに、何としても孫礼の抵抗を排し、
一気に寿春まで前進すべきだった。
実際、戦場が芍陂近傍の何処であったかは分からないけど、
数万を率いながら迂回部隊の一つも送らず、単純な前進に終始し、
それが失敗し、王淩が到着しても、魏軍の固める堤防を闇雲に攻撃し、
それでいてあっさり退いている。

何とかこの揚州方面で全jが踏ん張っていれば、魏軍も軽々しく中軍を荊州に遅れなかったろうに。

36 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/16(日) 20:33:43
前線を囲んで慎重に漸進するならするで、
こちらも堅固な陣でも築いて敵を迎え撃てばよかったように思うのだが…

それこそ同時侵攻なんだから、既に指摘の通り時間をかければ相手側に戦線を整える時間を与えることにはなるが、
逆に敵を引き付けることによって友軍の助けにもなるし、蜀側の動きも違ってくる。

全戦線に渡って大軍が迫るような状況が続けば、
実情以上に精神的に大きなプレッシャーをかけられたんじゃなかろうか。

37 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/18(火) 01:45:38
まぁ、初めから、もっと蜀と連携すべきでもあったね。
この頃、西方では大した動きも無く、それも、荊州に戦力を集中できた一因だったろうから。

そういった点では、遠征は失敗したとは言え、蜀に出兵を促した諸葛恪の姿勢は評価できると思う。

38 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 01:05:57
仮に呉蜀が連携して戦争を遂行するとして、一つの問題は、
同一目的を持って、同一戦場にて戦力を合して戦うのがいいのか、
別目的を持って、別の戦場で戦うのがいいのか、という事だろうね。

前者は戦力の集中という点で言えば理があるし、最初の前進を迅速に行えれば、
局地的に相当な戦力優越を達成する事ができる。
更に言えば、一方の敗北が他方の敗北と同義なので、その戦場に限って言えば、
両軍共に努力を傾けるという期待が持てる。
ただ、対する魏としても、敵の目的が明確なので、同様に戦力を集中する事ができる。
また、例え連合国が勝利したとしても、その後の利害の調整が難しい。

後者であれば、各国が独立して戦っているので、一方の失敗は直接的には影響が無く、
自身の戦場に努力を傾け続ける事ができる。
魏としても、どの戦場を優先すべきかを慎重に判断しなければならないと共に、
戦力を多方面に分散しなければならない。
ただし、両国の利害は一致していない為、それぞれが簡単に戦争遂行を諦める公算も高く、
両者の歩調も合いにくい。
また、直接的な影響が無いとは言え、一方が敗北すれば他方の戦況が悪化するのは間違いない。

実際に両国が行ったのは、諸葛亮時代やそれ以降を通じて後者しかない。
かと言って、前者の方法を採ったとしても、成功の公算は高くないだろう。
両国が同一戦場に軍を進めたとしても、精々10万弱の戦力しか傾注できないだろうから、
後から来るであろう魏の中央軍によって、その初期の優越は簡単に覆される。

やはり後者の方式の方が優れているのだろうと思う。
それでも勝てなかったのは、地力が足りていないか、連携が取れていなかったからだろうね。

39 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 01:16:44
話は変わるのだが、やはりスレとしてある以上、特定の人だけで回すのは良くないと思う。
だが、どういった話題なら多くの人が話に参加できるのか、自分には考え付かない。

初心者からマニアまで広く参加できるような話題は無いだろうか?

40 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 15:33:30
>>37-39
この241年の頃というと、蜀ではちょうど蒋琬と費禕が(魏に対する)方策を協議したが結論が出せなかった年。
これって多分蒋琬伝にある漢水降りの件に該当すると思うのだが、
実現していれば西方・南方から襄・樊を狙う、38のいう前者の案だったわけだ。

元々両国が共同して一つの戦場を目指すとなれば、それは荊北しかあり得ないわけで、
赤壁以来の共同軍が実現するとすれば、この時が最大最後のチャンスだったのかもね。

とはいっても後が無かった起死回生を賭けた一戦だった赤壁とは違い、
一個の戦場に両軍の全戦力を傾斜なんてことは最早不可能なわけで、
呉側が戦線を東方は淮南にまで派遣して戦力(とリスク)を拡散させたのと同様、
蜀側も実行するなら漢中から西方経由で長安を目指すような部隊を派遣し、
魏側の注意と戦力の分散を計っただろうけど(つまり前者と後者の折衷案)

そもそも蜀側が決断できなかった最大の理由は、敵の目の前を横に突っ切るという戦線の脆さだろうし、
なんらかの方法でこれをカヴァーしないとまともに作戦が遂行できない。
両国がよほど綿密な協議の末に行うわけでもない限り、危なっかしくて実行できないのは当然。

もしこれが諸葛亮-陸遜ラインが健在な頃に練られたとしても、慎重な両者がゴーサインを出すことはないだろうし、
姜維-諸葛格体制なら案外飛びつくかもしれないが、まず成功はしないだろう。
(才能の程はともかく、こんな大規模作戦を上手く纏める人望・器量がなさそう)

その点両国に孫権・陸遜・蒋琬らまとめ役が健在で、
その下で姜維や朱然といった猟犬が腕を振るえたこの時期は、俺の中では一番「もしかしたら」を感じさせる。


スレの伸びを気にするのは不毛な気もするが一応考えて見ると、
やはりメジャーな人物に焦点を当てたほうが食いつきは良いのかなぁ…と思う。
他のスレでもよく名前が挙がるような人物を、他とは見る角度を変えて話してみれば新鮮…かもしれない。

41 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 20:20:03
>>40
西方と東方の両方に軍を出す事ができる状態だったかという疑問はある。
何せ、諸葛亮が宰相であった頃、国家の全力を傾けてようやく10万だから。

呉蜀の軍が荊州で合流するという事は、蜀も少なくとも襄陽の辺りまで軍を進めなければならない。
そこまでの前進を行うだけのものは、蜀にはなかったように思う。
蜀の連絡線は新城郡、そして雍州の魏軍に絶えず脅かされるが、呉にはそれがない。
呉も戦後、襄陽周辺の領有は譲らないだろうから、蜀の旨みは小さい。

あくまで荊州で軍を合流させるにしても、蜀はその前進を新城郡までで一旦留める方が良いと思う。
同時に、牽制の為に一部を雍州に向かわせる。
ただ、両戦場に対する戦力の配分をどうするかが難しいし、
結局、荊州での合流は果たし難いから、同一戦場での共闘という意味は小さくなる。

やらなかったのは、やらなかったなりの理由があるって事なんだろう。


蒋琬と姜維の関係は、陸遜と朱然の関係とはまた違うような気がする。
前者は、宰相と軍司令官、後者は軍司令官と麾下軍団長のような関係だと思う。
もちろん陸遜も宰相なんだけど、蒋琬と違い、朱然に軍事を殆ど一任するような事は無いだろうし。
蒋琬の下に姜維がいた頃と、姜維がトップだった頃とで、何処まで違ったかは、
自分には推測しきれないな。
荊州攻略を断念した後のプランでは、蒋琬は後詰と言いつつ涪にいたから、
どこまで姜維を支援しようとしたかは分からないしね。


自分としては、スレの伸びそのものを気にしているわけじゃないんだよね。
特定の人だけで話してて、他の人が入りずらい雰囲気が個人的に嫌だってのもあるんだけど、
多くの人が何か発言する方が、それが他愛の無いものだとしても、
考えが刺激されて良いアイデアが浮かびやすいだろうというのも大きい。

42 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 21:41:35
>>41
総括としては結局呉の北上を助けるための陽動に終始するような作戦に、
犠牲を払ってまで出兵なんてできない、ということだね。

蒋琬と姜維の関係は、孫権・陸遜と朱然より孫権と陸遜の関係に近いってことかな?
確かに姜維より王平などで喩えた方がしっくりいったかも知れない。
まぁそこら辺は名前が挙がったついでということで…


話題、話題ねぇ。
『好きなあの人・嫌いなあんちくしょう』を理由付きでとか。

43 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 21:56:03
>>41
まぁ、そういう事だね。
こういう連携は、「これ以上戦っても利益は無い」と、どちらかが判断した時点で瓦解するから、
やはり別々に戦った方が良いんだろうと思う。
両者の間に信頼関係が無かったら、こういった援軍は寧ろ害にすらなりかねないし。
クラウゼヴィッツもマキャベリも、その著書でそんな様な事を述べていたしね。

個人的に、蒋琬と姜維は、ビスマルクとモルトケとか、リンカーンとグラントみたいな関係だと思ってる。


好きな人物や嫌いな人物ってのは、やはりとっつきやすいのかねぇ。
ただ、自分は、嫌いな人物ってのはいないなぁ。
好きな人物だったら大勢出てくるけど。

44 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 21:57:57
アンカー間違えた、>>43>>42宛てね

45 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 21:59:20
>>43
蔣琬と姜維の間には費禕がいるぞ。
出先の蔣琬、留守を預かる費禕、その下の姜維って関係でしょ。

46 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 22:01:36
なるべくageで書き込むとか、他スレに宣伝してくるとかすれば
少しは人が増えるかもだけど変な人も増えそうだな。

47 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 22:05:16
>>45
費禕がいると何か変わるのかい?

宰相と、その下で軍事に従事する司令官という構図に変わりはないと思うけど。
費禕は姜維と違い、大司馬府の役職には就いてないようだしね。

費禕はあくまで、中央政府における蒋琬の次官。
姜維は中央政府でも将軍位を持ってはいるけど、蒋琬が死ぬまでは尚書台等には入らず、
大司馬司馬として、蒋琬の幕府内の軍事を取り捌いていたのだから、
二人の関係を考える上で、別に費禕の存在は大きな影響を及ぼさないと思う。

48 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 22:12:03
>>38
蜀と呉は国力に如何ほどかの差はあれど基本的に対等の同盟国同士。
その二国が同一戦域で歩調を合わせるという時点でもう不可能に近いんじゃ?

これが一方が盟主国で武威を背景に作戦を主導するというならまだわかるが、
双方が対等なら事前交渉の段階から利害の主張は必然的についてまわる。
腹の内ではどちらも、損失は最小にしかれど戦果は最上に、と考えているだろう。
たとえその段階で双方が納得ないし妥協できた結果として出征にこぎつけたと
しても、次には一元化されていない命令系統が常に足枷となって柔軟性を失う。

作戦ひとつにしても、どちらか一方が主導しもう一方が下風に立つ様なもので
あれば、たとえそれが最上の作戦であっても実行は難しい。

そうなれば結局は双方が自国の利益を損なわない(もしくは優先する)様になるし、
それでは双方が独自の意思で動くのと大差ない。
魏にしてみればそんな隙は見逃さないだろう。

戦力の集中といえば聞こえはいいけど、船頭多くしてなんとやらに近いともいえる。

49 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 22:14:08
って書き込んでる合間に結論はでてるのか。
博識な面々の前でスレ汚しになってしまったようだ…

50 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 22:18:12
>>46
宣伝か。初心者が増えるのは自分としては一向に構わない。
裾野が広がるだろうし、自分程度の知識で良いなら、教えてあげられる事は教えるし。

荒らしが湧くって事もあるかもしれないが、スルーすりゃ良さそうだし、
今の三戦自体に、そういったものが出るほどの活気がない気もする。


そういや、結構前だけど、むじんさんが、各人がその帰属意識を、
中央政府に持っているのか丞相府に持っているのか、という話をしていた。
姜維や王平は、大司馬府における中心的役割になっていたようだけど、
実際、どっちの方が大きかったんだろうね。

姜維は、蒋琬の死に伴う大司馬府解体後、録尚書事となっているが、
王平の場合はよく分からんね。
その後すぐに死んでいるから、蒋琬が死んだ頃には職務に就くような健康状態じゃなかったのかもしれない。

51 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/19(水) 22:25:17
>>48
そうなんだよね。
よほどの事がない限り、同盟軍の結束は弱い。
その政治的意図が一致する事など、あり得ないと言っていいくらいのものだしね。

しかも呉蜀の両国は、共通の敵である魏を打倒した後は、
協力していた相手が、今度は打倒すべき相手になる事が分かりきっている。
そういった状況で、真の政治的結束は達成されようも無い。

52 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 22:55:32
>>47
ああ、漢水下りの件までは姜維は蔣琬とともに漢中に赴任してしばしば西方に攻め入ってたんだったね。
ちょっと勘違いしてたわ。

53 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/20(木) 02:50:21
>>52
勘違いというのがちょっとよく分からない。
西方に攻め入る事は、直接には関係ない話だと思うよ。

漢水下りが論議される以前も以後も、蒋琬が死ぬまで姜維は大司馬の司馬だった。
興勢の役に際して、蜀の主力軍を、蒋琬ではなく費禕が率いているけど、
これは、費禕の大将軍就任共々、蒋琬の病状悪化に伴う措置だろう。
姜維自身は一貫して大司馬司馬だから、費禕の直属の部下となったわけではない。

だから扱いとしては、姜維も費禕も、蒋琬の部下と言う意味では同じで、序列はあっても、
姜維が費禕の指揮系統下に置かれたわけではないと思う。
蒋琬の死後は、録尚書事である費禕の次官ではなく、同格の録尚書事になっているし、
費禕の方が重みはあるし姜維を制する事はできるけど、ほぼ同様の権能を有していたと思うよ。

結論としては、別に蒋琬と姜維との間に、費禕という存在があったというわけではないって事かな。

まぁ、何が発端か分からないけど、リンカーンとグラントとかってのは、あくまで例えだし、
そんなに厳密に考えるような発言ではないよ。

54 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/20(木) 14:09:08
>>53
そうじゃなくて、
漢中の蔣琬ラインと成都の費禕のラインがあって、姜維は費禕のライン、
蜀末期で言えば、姜維のラインと諸葛瞻のラインがあって蔣琬の時代の姜維は蜀末期の閻宇のポジションにあった。
だから蔣琬と姜維の関係を語るんならその辺を踏まえんといかんのではないかなあと勘違いしてたということ。

55 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/20(木) 20:33:44
>>54
それは、「姜維は費禕に与して蒋琬を失脚させた」っていう、
むじんさんの考えと同じようなもの?

正直、自分は姜維が費禕に与していたとは思ってないから、その辺は納得しかねるな。
姜維はラインと言うより、蒋琬のスタッフだと思うよ。
ラインと言う点で言えば、蒋琬は録尚書事で、費禕は尚書令だったから、
これはラインと言えるけどね。

恐らく、ラインという言葉を指揮系統ではなく派閥のような意味で使ってると思うんだけど、
そういう話で言えば、姜維が費禕の派閥だったと明確に言える様なものは無いと思う。

56 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/20(木) 20:44:47
>>55
いや、そこまでは思ってない。
が、途中から姜維は(あと費禕も)蔣琬と距離を置き始めたんじゃないかな?とは思ってる。

57 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/20(木) 21:28:06
>>56
姜維は、蒋琬が涪に駐屯するようになって以降、逝去するまで共に涪にあったし、
恐らくまだ蜀の中では若手だったろうその息子に、漢城という要衝を任せてもいる。
費禕の息子とは関わっているように見えないが、
蒋琬の息子の方は引き立てているという事は、やはり姜維と蒋琬は親密だったと思うよ。

58 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/21(金) 12:44:24
蒋斌の将才が優れていたからという選択肢すら切り出さないのは意図的なの?

59 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/21(金) 14:24:26
>>57
> 姜維は、蒋琬が涪に駐屯するようになって以降、逝去するまで共に涪にあったし、

そうかなあ?
243年、姜維、鎮西大将軍・涼州刺史。費禕・姜維、蔣琬に聖旨を伝える。蔣琬、涪に引き返す。
246年、蔣琬死去。
247年、姜維、衛将軍・録尚書事。
てな感じで243年には蔣琬から離れてるような感じだけどなあ。
ただ244年の駱谷の役の時の動きがよくわからんのよねえ。
漢中では王平、劉敏、涪より諸軍、成都から費禕と動いてるわけだけど、姜維に関しては記述なし。
姜維は費禕とともに動いたのか、成都にあったのか、涪より諸軍を率いたのか、涪に蔣琬とともにあったのか。

> 蒋琬の息子の方は引き立てているという事は

別に蔣琬とあからさまに対立したわけではないし。
以下はもしかしたらだが、涼州方面ではなく漢水下りに方針が変更されそうになったことに対して反対の立場になっただけだと個人的に思う程度。
蔣琬の一族を排除する気などなかったろう。
あと費禕の子孫だが、費承は黄門侍郎、費恭は公主を娶り尚書郎まで昇ったが早世、長女は皇太子璿の妃。
姜維の関与は別にして蔣琬の子孫が費禕の子孫より引き上げられてるとも思えん。
だから姜維が蔣斌を特に引き立ててるとは思えない。

60 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/21(金) 15:44:25
>>58
正直、漢城の責任者というのは能力のみを以って任せる事のできるような場所じゃないと思うよ。
漢城は、諸葛亮の時代には丞相府がおかれると共に、漢水を挟んだ南側に、
巨大な城を築いて増築もされている。
また、西晋の時代には梁州の治所にもなっている。
恐らく漢中の軍組織、行政組織の中心だったから、単純に能力だけで任命したとは思えない。

あなたが、「蒋斌は能力によって選ばれたのだ」と思うなら、それはそれで構わないけどね。

>>59
費承の黄門侍郎は六百石で、少府内では高い地位だし、出世していないわけではない。
けれども、陳祗ならともかく、姜維がタッチするような職ではない。
対して、蒋斌の方の漢城護軍は、その後の姜維の防衛戦略の中核であると共に、
既に述べたけど、漢城という漢中最大の拠点を任せるという人事。
「宰相の子息であれば当然」と言われればそれまでだけど、
少なくとも蒋斌と姜維との間に相当な信頼関係があったのは間違いないと思うよ。

興勢の役に関する姜維の動きは、書かれてない以上は、涪にいたと見た方がいいと思う。
姜維はこの時点で蜀でも相当な実力者だから、動いていたら書かれてるだろうし。
あと、費禕と共に聖旨を伝えた事を以って、姜維が費禕に近付いたと見るのも違和感がある。
そもそも、蒋琬はこの時だって大司馬録尚書事だから、彼が不在のままで、
彼の意向に反するような詔勅を勝手に発行して、それを伝えるだけなんて事態は、それこそ異常だろう。
姜維は、蒋琬に反対する為に、費禕と共に成都で詔勅の起草に携わったのではなく、
病気で動けない蒋琬に代わって、蒋琬の意向を代表する人間として成都に行ったと見た方が、
個人的には自然だと思う。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/21(金) 22:23:56
243年の姜維の鎮西大将軍・涼州刺史就任が大司馬府の司馬と兼任されてたか次第じゃないの?
兼任されていたなら姜維は蒋エンの属官のままだけど
そうじゃないなら姜維は蒋エンの下から離れて費イに着いたんじゃないかとする
59の意見はおかしくないと思うよ

62 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/21(金) 22:52:06
だいたい、皇帝じきじきの聖旨が出されて方針を撤回するなんて、立案者の能力に皇帝じきじきのダメ出しがなされたようなもんだよ
あれは皇帝、費禕、姜維がグルになって蒋琬降ろし(逆クーデター)を実行したという見方が正しいと思うけどな
子供を取り立てるのはまた別の話だよ
姜維が取り立てるということは、諸葛亮の後任で大司馬にまでなった人物の子でありながら武官としての道しか開けていなかったということ。
それは不思議じゃないか?費禕の子が中央で出世しているのと対照的だ

63 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/21(金) 22:57:04
>>61
魏延だって、征西大将軍領涼州刺史だったけど、且つ丞相府の前軍師だった。
だから、鎮西大将軍領涼州刺史というのは、姜維の司馬解任の根拠にはならないと思う。
異動を示す記述が無い以上は、そのままと見る方が妥当だと思うよ。
鎮西大将軍も涼州刺史も、大司馬の掾属との兼任が不可能な職務じゃないし。

記述が無いのに異動しているという主張が通ってしまうなら、何でもありになってしまうしね。

64 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/21(金) 23:26:45
>>62
クーデター説は、飛躍していてどうしても受け入れがたいが、
強く否定する論拠も無いので、この件に関しては何とも言えない。

あと、蒋琬の子に関しては、蒋斌は漢城護軍となるまでの経歴は不明だけど、
弟の方はとにかくも太子僕になっていた。
太子僕は千石で、太子の側近だから、劉禅からその子へと帝位が移った時に、
顕官に昇ったであろう事は推測できる。

ただ、ニセクロさんが言うには、姜維、陳祗に抗いながら、その鋭鋒を避けようとする人たちが、
太子の下に逃げ込んでいたという推測ができるらしいから、
それが正しいとすると、兄は姜維の側にいながら、弟はそれに抗い、太子の下に逃げていた事になる。
とにかくも、「蒋琬の息子には軍人としての道しか開かれてなかった」とは言い難いだろうね。

65 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/21(金) 23:39:48
姜維は確かに蒋琬時代で既に重用されていたけど、大将軍にまで登る契機は「蒋琬への諭旨」を成功させたことにあると思うんだよね
あの聖旨は、諸葛亮時代から傀儡同然であった皇帝がリーダーシップを発揮し、最高権力者に(柔らかではあるけど)強権を発動したという一大事件
なぜああも反対が多く孤立したのか、など不明な点もあるけど、蒋琬の病気と孤立という好機を見て、No2だった費禕と副官だったはずの姜維が自分を「説得」に来て、翻意を強いられたのだから、
これは実質蒋琬の政治生命に終止符を打つ事件だったと見るべき
そして寝返った姜維に恩賞として費禕の次席が与えられた。そう解釈してる。
まあ別に他人にその解釈を強制する気はないけどね

66 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/22(土) 00:14:19
はっきりと書かれてない以上、いくら史書を探しても、
状況証拠となるような記述しか出てこない。
そうすると、自分の解釈も相手の解釈も、誰かに押し付けられるようなものじゃなくなる。

費禕らのクーデターもその類の主張になると思う。
そうすると、やはり、議論は結論の出ない様相を呈するようになる。
蓋然性の高い、決定的な解釈や記述が出てくるまでは、結論は出さない方がいいだろうね。


ただ少なくとも、上でも述べたけど、費禕は姜維に命令できる立場ではなかった、
というのは、認識としては正しいと思う。
たまに、費禕存命中は姜維は費禕の部下だった、と認識している人がいるけどね。
どちらも皇帝の部下であり、上司と部下ではなく同僚であるから、
一方が他方に命令するには皇帝の詔勅が必要になる。
費禕は録尚書事だから、詔勅を相当コントロールできる地位にいるけど、
これは姜維も同様なので、どちらも相手に譲歩する必要がある。
その結果が、姜維の中途半端な規模での出兵と、費禕の消極的な後詰に現れたんじゃないかと。

>>65
>諸葛亮時代から傀儡同然であった皇帝がリーダーシップを発揮し、
>最高権力者に(柔らかではあるけど)強権を発動したという一大事件

この辺の解釈は面白いと思う。
魏略の、「蒋琬死後は劉禅が国事を見るようになった」という記述と合わせると、
なかなか面白いストーリーが描けるんじゃなかろうか?

67 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/22(土) 00:29:13
蒋琬に関連しての事だけど、個人的に、李福が死ななかったらどうなっていたのかが興味深い。

李福は、蒋琬の大司馬就任に伴って、その司馬と前監軍を兼任している。
更に彼は尚書僕射でもあったから、尚書台においても費禕に次ぐ地位にあった。
「監軍>護軍」という序列を考えると、前護軍の王平を制する事もできる地位でもあったし、
司馬の定員が一人である事を考えると、彼の存命中は、姜維も大司馬府に入ってなかった事になる。

姜維の大司馬司馬就任のタイミングを考えると、任命されたらすぐに死んでしまったようだけどね。

幾つで死んだのかは分からないけど、もっと長生きだったら、
費禕に次いで宰相の地位に上っていたかもしれない。

68 :58:2008/03/24(月) 12:14:28
>>60
最初からそこまで書いていただければ理解できたんですけど。
私みたいに無知な者が口を挟むべきではありませんでしたね、失礼しました。

69 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 12:39:06
なんでそこまで卑屈なの!?

70 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/24(月) 21:13:43
>>68
自分が何か気に障るような事を言っていたら謝る。
あと、知識の有無は気にする事では無いと思うよ。



よく分からない事として、東征中止を伝える時にも、涪に入った時にも、
廖立に会った時にも、姜維は「監軍」とされているというのがある。
そもそも、監軍とか護軍とかってのは、諸葛亮存命時、その軍隊を指揮する為、
丞相直属のスタッフ、或いは部下指揮官として置かれたと思っていたのだけれど、
これらの官職自体は、諸葛亮の逝去後も存在していた。
蒋琬の時代に中監軍であった姜維や、興勢の役で前監軍だった王平や、
左護軍だった劉敏などは、そもそも誰の監軍や護軍だったのだろうか?

普通に考えると、諸葛亮時代の各監軍や護軍は、蒋琬時代とは別物で、
新たに蒋琬の掾属として置かれたものと思うのだけれど、
それだと、姜維が「監軍」と表記された事の説明が付きにくいかもしれない。
蒋琬の掾属としてこれらがあったなら、むしろ司馬として表記するだろうからね。

そうすると、もともと監軍や護軍自体、丞相や大司馬の掾属ではなく、
軍隊そのものに置かれていた官職と考えた方がいいのだろうか。
それにしたって、輔漢将軍より優先するものなのかは分からないし、
丞相や大司馬など、諸葛亮や蒋琬の帯びていた官職が、
これらに対する指揮権を有していたのかの判断が付かなくなるが。

71 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 23:01:43
>>70
監軍や護軍って、「丞相監軍」みたいな呼ばれ方をしてない以上、蜀全軍に対する監軍なのかもな
前監軍、中監軍といった呼称も、監軍の管轄を示すのではなく格(順位)を示しているのかもしれん
将軍は自分が指揮官となって独立した兵を率いる資格
監軍は皇帝(丞相や大将軍)の兵を監察する権限
司馬は丞相(大将軍)の部下としての役職
こう分かれてるんじゃないのか

72 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 23:33:11
>>68役立たずの穢多荒らしは死ねや

73 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/25(火) 01:09:13
>>71
監軍等が軍に対して何らかの権限を持っている以上、
誰かの指揮下でなければならないはずで、丞相や大司馬で無い以上は皇帝になると思う。
しかしそうなると、丞相や大司馬そのものには、監軍らを指揮する権限は無く、
その為の詔勅を皇帝より貰わなければならなくなる。

李厳の弾劾状に連ねてる名前を見ると、大抵は、軍師、監軍、護軍、典軍、参軍あたりを帯びている。
丞相府の掾属である事が確定的な軍師と参軍を除いても、
皇帝直属の部下として軍内の監察を行う人間が大量にいる事になる。

三国志本文だと、護軍とか監軍とか書かれるけど、この弾劾状では、
監軍、護軍、典軍、参軍には行が付いている。
軍師に関しては、劉琰には行が付いているけど、魏延には付いていない。
行と付くのが正式とするならば、彼らはあくまで監軍などを代行しているに過ぎない。
基本的に、監軍とかってのは正式な任官では無かったのだろうか?

各刺史と、楊儀の長史は領だから、兼任ではあるけど正式任官だろうね。

よく分からんね。
ただ、前後左右中の各監軍、護軍等は、督左部や督前部などがあり、
前後左右中の軍が存在していたと考えられるので、それぞれの監軍等だったと思う。

74 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 01:49:39
>>73
監軍や護軍が軍の監察などが役目だとすれば、丞相や大将軍に直接の指揮権が無い方が当然
また、相互監視だったり、例えば大隊ごとに監察が別に付くのだとすれば、監察が沢山居ても不思議でもなんでもない
名目上、皇帝では無い者が皇帝に直属すべき兵を率いる場合、皇帝が直率する代わりに(名目上)皇帝直属の監察が付いて司令官の暴走を監視する、こういうシステムだったのではないのかな?
ただし、現実にはその監察が丞相の指揮を受ける将軍でもあり、また丞相府の属官でもあったりするから、あくまでも名目上でしかないわけだが

75 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/25(火) 02:25:19
>>74
いやいや、言葉足らずだったが、「軍の監察を任務とする役職は丞相の指揮下に置かれるべき」
という意味で言ったわけじゃないんだ。

丞相やら益州牧やらじゃ、監軍や護軍はおろか、将軍に対しても指揮権を持っているわけじゃない。
彼らを指揮できるのは皇帝だからね。
しかし、弾劾状を見るに、「監軍や護軍+将軍位」という人物が多数で、
丞相府の掾属が確実な人物の方が少ない。
しかし面子を見ると、彼らが軍の高級指揮官でもあった可能性は高い。

全軍の総司令官たる諸葛亮としては、彼らを指揮下におかないといけないんだけど、
それに該当する官職を持っている人物が少ないというのは問題だろうって事ね。
だから、監軍とか護軍とかってのは、丞相が各将軍に対する指揮権を有する為の、
例え掾属ではないにしても、半ば掾属のような官職であったとする方が、
軍組織という事を考えると自然かな、と思うんだよね。

また、彼らが高級指揮官であったとするならば、多数の監軍、護軍が、
連隊や大隊クラスの監察をする場合、互いに部隊を監察しあう事になる。
指揮官同士の猜疑心や軋轢を養うようなシステムを作るのは、あまり良いとは思えないんだよね。

仮に各隊に監察官を送るのであれば、指揮官とは別に送った方が良いと思う。

名目はあなたの言うとおり、軍の監察が役目だったのかもしれない。
ただ、個人的には、丞相が軍を指揮する為に設けた臨時の掾属と考えるのが良いのだろうと思う。
少なくとも蜀において、監軍や護軍が軍の監察をしていた様子は見られないしね。

諸葛亮麾下においては、正式な指揮権がなくても、各将軍は諸葛亮に従う義務が、
慣例として存在していたという可能性はあるけど、
命令違反で処刑された馬謖などを考えると、システムとして明確にあっただろうし。

76 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 22:28:49
後漢書百官志の将軍の項目では大将軍は五部を営すとある。
督前部などは丞相が軍を率いた時の五部のうち前部を督する役目と考えられる
行○○は臨時でその職を行っていることを指していた筈。
皇帝の行幸先での儀式や皇族の葬送などでそこに三公や九卿がいないとき
侍中などが行司徒などで司徒役をつとめて儀式を行うことがある。
護軍は諸将(軍)の取りまとめ役、監軍は監察、監督役と考えられる。
王平伝の興勢の役の時の前監軍王平と護軍劉敏との間のやり取りは監軍と
護軍にそれぞれきちんと役割が設けられていたればこその展開であるよう
に見える。
李厳伝の裴注にある諸葛亮の弾劾上表は当時の蜀軍の軍制、指揮統制の位
階とシステムを著した貴重な資料に見える

77 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/25(火) 23:32:15
>>76
これはこれはニセクロさん。レスどうもです。

諸葛亮と、大司馬となった後の蒋琬を考えていたから、大将軍に注視してませんでした。
百官志も丞相と大司馬はチェックしたんですが、大将軍は失念していました。
改めて後漢書(続漢書)百官志を読んでみると、確かに、
大将軍は五部を統率する事が書かれています。
この記述は読んだ事があったのに忘れてましたよ。

とすると、大将軍であれば、前後左右中の各軍を統率する事は、
そもそもその職掌にある事であり、監軍や護軍が各軍に付されていたとしても、
それを統率する事も可能という事ですね。
しかし問題になってくるのは、諸葛亮は大将軍を兼務していたのかという事です。
これは史書に書かれてないんですよね。
蒋琬が大将軍となるまで、劉備・劉禅を通じて誰が大将軍だったのか書かれてないし。

78 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 23:35:49
漢ではもともと丞相ってのは軍をも率いる存在
これは漢建国の最初からそう

蜀では大将軍の上位互換として大司馬と丞相があったように感じる

79 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/25(火) 23:39:51
>>78
と言うと、丞相や大司馬の時点で、五部を統率する事は可能だってわけだね。
であれば、監軍、護軍、領軍、典軍が各部に属する官職だったとしても、
彼らはそれを統率する権限があるわけだ。

以前むじんさんとも話したけど、これで、諸葛亮死後も監軍等が消えなかった理由の説明が付く。

もともと、李福の「前監軍領司馬」というのが、監軍が掾属でない事を示していたのかもしれない。
掾属の兼任を、自分は見た事がないので。

80 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 23:51:38
>>79
丞相が死んでも率いていた兵士は消えないからね
五部の兵は、丞相府の一部なんじゃなくて、大将軍や丞相などの最高位の人物に属する機構なんだろう
だから諸葛亮や姜維が降格しても、丞相や大将軍を代行しなければならなかった
代行しないと五部の兵が宙に浮く

逆に、大司馬がいながら大将軍が任命されている状態は、どちらが実際に五部の兵の指揮を執ったのかという極めて微妙な問題が発生するような気がする

81 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 23:52:16
>>77
>>78の人が言うように軍制に関して上位互換と見るべきだと思う
魏でも蜀でも大将軍<<大司馬だし

>>79
掾属の兼任について。
李厳伝の裴注にある諸葛亮の弾劾上表を見ると
領從事中郎武略中郎將臣樊岐と記名がある

若しかしたら丞相府の従事中郎かも知れない

82 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 00:03:16
>>79
監軍とかは掾属とは違うと思うけど


83 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 00:03:34
>>80
そうだね。
大司馬も大将軍も共に五部の軍兵を統率するとなると、
どちらが正当な指揮権なのか判断付きにくい。

ただ、蒋琬と費禕に関しては、蒋琬の病状が一番の原因に思う。

姜維は中監軍でありながら、興勢の役で費禕と行動を共にしなかったけど、
これがどういう意味を持つのか、少し考えてみる必要があるのかもしれない。

>>81
武略中郎将って丞相の掾属でしたっけ?
言葉足らずでしたが、掾属二つを兼任するってのを見た事が無かったんですよ。

84 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 00:09:06
>>82
いやいや、百官志とかには掾属として書かれてないし、
そう考えるのが当然なんだろうけど、
上でも話したように、丞相等が各将軍を指揮する為の権限を有している必要があるって事から、
例え名目は掾属でなくても、実質は掾属のような扱いだったんじゃないかって事を言ってたんだよね。

85 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 00:12:25
>>83
>掾属二つを兼任する

なるほど。それは無いよね
従事中郎が掾属である可能性。武略中郎将は朝廷の官職かと

86 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 00:17:26
>>85
やはりそうですよね。
これでこの話については、大体の決着がついたようにに思えます。


ただやはり気になるのは、何故李厳の弾劾状には、「行」護軍とかってなってたのかって事ですね。
別に監軍や護軍を空位にする必要はないと思うのに、領ではなく行とした意味が分からない。

87 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 00:29:08
>>80
魏だと大将軍には大将軍の五部が、大司馬には大司馬の五部が組織されてたように見えるけどね

>>86
正規の監軍や護軍が別に居た可能性がある
李厳は丞相府事を署していたから後方兵站を担うために残されてたと考えられる
それとは別に前線の軍にはまた監軍や護軍が必要だから「行」職で就けたと
丞相長史は丞相に直参して働く奴と留府長史に分かれてたけど、監軍や護軍は
そこまで組織の進化ができてなかったと言うことかと

88 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 00:38:44
>>87
例えば、護軍の陳到が永安都督ととして李厳を補佐していたとか、
そういう記述を考えての事ですか?

確かにそういうのはあるかもしれませんね。
ただ、かなりの人数に「行」が付いているという事は、
同数が成都等に正規の監軍や護軍としていたという事になると思うのですが、
そういう人物があまり記されていないのが気がかりですね。

89 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 00:48:53
「行○○」には、正式任官にはキャリアが満たない場合というのもあるみたいだよね
正規の官は空位だったのかもしれんよ

90 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 00:59:04
>>89
そういう時もあるね。
件の弾劾状で最も先に来ているのが行中監軍のケ芝だけど、
彼は郡太守から尚書に遷り、呉への使いを成功させた後、
諸葛亮の漢中駐屯に伴って中監軍になっている。

費禕に関しては侍中もやってるし、その数年後に尚書令になるような人物だから、
中護軍を拝するに満たないって事もないように思えるんだよね。

そういや、費禕はその後丞相司馬を拝命してるけど、新たに中護軍が任命されたようにも見えないし、
中護軍領丞相司馬って事かな?
かなりの側近だよね。将軍位が偏将軍なのとはえらい違いだ。

よくこれで、魏延も、一瞬とは言え諸葛亮の遺言に従わず自分に従うと思ったもんだ。

91 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 01:33:05
>>90
ケ芝、費禕とも、その時点では将軍になったばかりと偏将軍でしかない、という、将軍位で言えばヒヨッコということにならない?
官僚としてはキャリア十分であったり、皇帝(諸葛亮)の覚えめでたい出世頭あったりしても、
軍部の序列ではまだ低く、本来中護軍や中監軍となるべき順位ではなかったのではないだろうか?
しかし(おそらくは諸葛亮の)抜擢を受けて高い地位につけられたため、「行」が付いた、と
「本官はあくまでも空位なんですよ。いま位が低い奴がこの職に就いてるのは臨時代行なんですよ」という、序列と体面を守るための組織運営上のある種の方便だね

92 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/26(水) 02:01:00
>>91
そんなもんなんだろうか。
とすると、監軍や護軍は相当高位な武官位って事か。
確かに、前監軍やら中監軍やらは、各部に定員一人だろうから、
多数の軍人の中でも選ばれた人しか就けないだろうしね。

諸葛攀が行護軍翊武将軍になってたりするが、これははっきり「行」とあるね。

延熙六年の重鎮が、
前監軍鎮北大将軍王平
中監軍鎮西大将軍領涼州刺史姜維
前軍師?督江州車騎将軍領兗州刺史ケ芝
と、ケ芝の前軍師はこの時もそうだったかは分からないけど、
前二者は相当な高位だね。

93 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 05:29:29
魏でいえば、曹仁あたりはやたらと「行」が多いやね

94 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/27(木) 01:03:59
曹仁の場合、やはり格が足りないからだろうね。
曹操の子飼いでは、そう易々と漢の将軍位は望めないって事だろう。
事N校尉という、よく分からん武官位ですら行が付いたしね。
魏国ができてから、急に行が取れて、すぐに車騎将軍にまで上ったのも、
そういう事が関係してるんだろうね。


話題も一段落したので、少し。
これはたまに思うし、今までも言った事あるけど、能力値系や名将選出系のスレでは、
どうしても諸葛亮死後〜三国統一までの人物は無視されやすい。
その状態を苦々しく思うとか、そういう事も無いんだけど、
この時代の人物を推すような主張が殆ど無い事はやはり寂しいものがある。

で、中には、「好きなんだけど、どういう点で優れているのか分からない」って人もいると思う。
かつての俺はそんな感じで、意見を言いたくとも言えなかった。

仮にそういう人がいればだけど、このスレで名将を10人程度、
できれば議論の上で選出し、それを纏める事ができれば、
多少なりとも名将系のスレなどで、彼らを推す人も増えるんじゃないかと思う。

とりあえず、近い内、何人かについて論拠付きで名将っぷりを述べてみようと思う。

95 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 00:12:31
名将談義というのはなかなか難しいもので、ただ讃えるだけなら良いんだけど、
比較するとなると途端に結論が出にくくなる。
知識の無い内は勝ち負けばかりに目が行くし、なまじ知識をつけると、
簡単に優劣をつけられなくなってしまう。

まだ深く考えてはいないので理由は述べられないが、個人的に10人選出すると、

蜀:姜維
呉:陸抗、陶璜
魏晋:ケ艾、王基、王渾、陳泰、王濬、羊祜、馬隆
(王昶、郭淮、杜預、毋丘倹、鍾会)

魏晋は迷うね。
見事な迂回をしてみせた王昶や、高句驪討伐の毋丘倹など、
光るものを持っている将軍は多い。
国力の違いもあるけど、少なくとも史書を読む限り、
呉蜀では10人しか選出できない場合、やはり合わせても3人か4人程度になると思う。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/28(金) 00:53:30
好みによって評価の細かい部分に影響が出るのは仕方ないことだし、
「個人的」という範囲から出て十傑選出ってのは難しいね。
接点のない(乏しい)武将の優劣なんて判断材料の選別から大変そう。

97 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 00:59:06
日記帳状態になるのも何なので、何か話題があったら、俺に気にする事無く書き込んでくれ。


まず姜維だけど、彼は三国時代には珍しく、戦闘における指揮が巧みだった。
三国時代で名将と呼ぶべき人物は、普通は軍事戦略における優秀さを発揮するものだけど、
彼の場合は、戦略よりも戦術においてその才能が発揮されている。
万単位の両軍が一個の戦場に集結し、そこで敵の撃破を行うという、会戦というやつだね。
戦闘はなるべく避けた方が良い、という考えはやはり正しいし、無駄な流血無く勝利を得る事は重要。
ただ、時代によってはそんな事をお構いなしに行動する人物がいる。
七年戦争初期のフリードリヒ大王やハンニバルとかだね。

ただ、軍事戦略面に関しては、直接アプローチに傾きすぎ、
その戦術を発揮できる状態まで、すなわち決戦まで持っていく事があまりできなかった。
決戦は、不期遭遇戦などを除き、敵味方双方が決戦を企図しなければ発生しないものだからね。
その点を考慮すると、姜維は十傑には入らないかもしれない。
けれど、その特異性という点を鑑みれば、入れるのは選択肢としては正しいと思う。

98 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 01:03:13
>>96
難しいだろうね。
正直、実際に交戦していても、簡単に優劣なんか付けられない。
勝敗を決する要素は、指揮官の才覚の差だけではないからね。

時代に合致しているか否かも、勝敗に大きく関わってくるし。
火力が機動力に勝る時代には、決戦戦争的な将帥は活躍しづらいし、逆もまた然りだしね。

99 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 01:17:33
南北戦争の英雄、ストーンウォール・ジャクソンの言葉に、
「神秘化せよ、誤りに導け、そして奇襲せよ」というものがある。
また、クラウゼヴィッツも、奇襲の要素を持たなければ戦力の優劣は覆せないと言っている。

ジャクソンの「神秘化せよ」という言葉は、リデルハートの言を借りれば「ジレンマに追い込め」という事。
三国志の戦争を、幾つも考えてきたが、こういった機動は殆ど見られない。
これは、代替目標への転進が可能な作戦線を採れって事だね。
姜維は256年にそういった機動を行えそうだったが、種々の制約から不可能だった。

実は、このジレンマに追い込むという機動の典型が、討蜀戦役にある。
この戦役での諸葛緒がまさにそれ。
諸葛緒の前進は、下弁より陽平関に向かうのか、それとも西へ転じて沓中へ向かうのか、
或いは白水まで出て関城を襲うのか、或いは真っ直ぐ四川盆地へ殺到するのか、
蜀側からすると全く分からなかった。

実際、諸葛緒が前進中である事を察知した廖化は、この神秘化された前進に惑わされ、
全く動く事ができなかった。
それだけ、下弁より南北に伸びる交通線は、魏蜀にとって重要なものだった。
この機動をプロデュースした鍾会と、事前に哨戒陣地を築いていた姜維の慧眼は、
感服すべきものがあると言える。

姜維の場合、築いていながら自分はその範囲の外にいたので、姜維にとってはあまり機能しなかった。
この辺りも、戦略面における姜維の資質不足の一つだろうね。
その慧眼を活かす術には長じていない。

100 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 02:10:39
どう考えても、呉と蜀はエントリーが難しい。
国力差が、勝敗に影響して勝利を遠のけているという事だけでなく、
軍事戦略レベルで活躍できる素地自体が呉蜀では少なくなっているという事の原因にもなっている。

もちろん、勇敢さや大胆さを指揮官の最重要資質と考え、実績によらず、
それらの諸要素が抜群と認められたら選出する、という考えもあるとは思うけど。

ただ一城を保持したりだとか、一部隊長(軍団長)として戦術レベルの果敢な突撃や、
巧みな防御戦闘で活躍したりだとかってだけでは、やはり土俵が違ってしまうしね。

こういう場合、やはり部門別でやるのが良いんだろうか?


どうでもいいが、このペースだと1000いかずに512kBに達するな。

101 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/28(金) 19:56:14
>>99
その「神秘化せよ」ってのはそのまま「意図を悟られるな、狙いを絞らせるな」ってことだよね。
孫子で言えば虚実編のあたり。

狙いがわからないから相手はその全て(広範囲)に備えねばならず、
こちらはその内の一つ(一局面)に戦力を集中できる、と…

こういった作戦が上手く決まった戦いは確かに三国志では少ないね。
多分三国鼎立状態に入ってくると、双方とも最低限の要所の防衛に注力するから、
この敵戦力の分散が上手く行われなかったり、少数でも要害だったりして結局失敗するのかなぁと。

102 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/28(金) 20:14:44
失敗はしたけれど諸葛亮の第一次北伐もそうなんかね?
姜維は割りと敵の虚をつこうと頑張ったね。結局は読まれてしまったことも多かったけど。
鍾会の征蜀時に諸葛緒に逃げ口をふさがれそうになった危機を脱した手もそうなのかな?

103 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 20:43:32
>>101
つまりはそういう事だね。

ただ、そういう作戦が少ない事には、特に蜀においては地理上の制約が最も大きいと思う。
山と高原の多い地帯で、主要な道路で数珠繋ぎに敵拠点が存在するので、
前進そのものが少数の作戦線に限定されてしまう。
また、兵站上の制約も大きいので、その目的も暴露されやすい。
こういう状況では、例えば諸葛緒のような、例えばシャーマンのような、
一本の作戦線で戦力を結集して前進しながら、それが敵を惑わすという状態は作れず、
敵を惑わすには、軍を分けて敵を分散させる必要が生じる。
ただ、こうした方法では、少ない戦力を更に分ける為、敵の分散を呼んだ後の、
敵の一部に対する自軍の集結を達成する事が困難になる。
ましてや、地理上の制約があるので、雍州では更に困難になる。


>>102
今挙げた最も効率的な方法ではないけれど、別働隊による敵戦力の分散を図ったという点、
諸葛亮が前進すると思われていなかった地点への前進という点を考えると、
あれは間接アプローチ的要素を多分に含んだものだったと思うよ。

姜維のも、神秘化という要素があるか無いかで言えば、ある。
ただ、その範囲は狭く、彼にとっては十分であったとは言え、
効果はそれほど大きいものではなかった。

敵後方に対する機動は、前線の軍隊に近ければ近いほど即効性が大きく、
遠ければ遠いほど、すなわち策源に近ければ近いほど、最終的な効果は大きくなる。

104 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/28(金) 23:18:10
王基の冷静さ、前線の判断を優先する果断さは好きだし、将軍として重要な資質なんだが、
彼の場合、各戦役において支作戦や前衛を受け持ったりしただけで、
戦争全体を指導する立場ではなかった事が悔やまれる。
如何に戦局を決定付ける働きをしたとしても、作戦全体を立案・実行してる記述は無いので、
そこを以って否定されると、十傑に入れなくなってしまうかもしれない。


やはりこういうのは、選ぶ人によってガラリと変わるんだろうね。
極端に結果を重視する人とかは、蜀からは一人も選ばないかもしれないし。

105 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/29(土) 01:48:57
そもそも残されている情報が極端に偏ってて断片的だし、
殆どの場合詳細な推移不明の戦しかないじゃない。

そりゃ判断も比較的明確な結果に偏ろうってもんだよ。
だからって検討をしなくて良いなんてつもりもないけど。

106 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/29(土) 02:10:01
別に勝敗で判断する事を否定したわけじゃないけどね。
他に何も情報が無ければ、勝敗で判断するより無いだろうからね。

ただ、多少なりとも軍事の知識を付けた身としては、
勝敗のみを以ってする批判では、あまりに将帥が不憫に思えるし、
クラウゼヴィッツの言葉を借りれば、それを知恵の至極の結果とはできないからね。
例えそれが僅かであっても、与えられた情報から己の導きうる、最も仔細な考察をすべきだろうと、
自分自身に対しては思ってる。

何より、些細な情報からでも、そこから多くを考えて導いた意見に対して、
結果のみで否定をするのは、あまりに不誠実だと思うから、俺はそういう態度をとりたくはない。

ま、そういう人もそういう人なりの考えがあるんだろうし、
これは俺自身に課してる事だから、俺以外がそういう態度をとる事には何も言わないけどね。

107 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/29(土) 12:28:21
>>106
姜維が好きだっていうのがひしひし伝わってくる
いや俺も好きなんだけどね
姜維北伐スレの最初期から細々と参加させてもらってる身でもあり…

108 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/30(日) 00:36:19
>>107
そんなに伝わってるかい?自分じゃよく分からないけど。

姜維北伐スレは、2スレ目の前半まではROMってただけだったな。
俺が色々やってたのは、基本的には3スレ目だけだね。


たまにある、陸抗の高すぎる評価には前も疑問を呈したが、
それに関連して西陵の戦いについて少し考えてみた。

あれは敵城砦を前にしてcontravallationとcircumvallationを築く、
二重堡塁線の包囲形式が採られ、それによって西陵城周辺での戦闘に勝利したものだね。
個人的にはもっと効率的な方法、すなわち、西陵城を監視しつつ、
十分な野戦軍によって救援軍を撃破する方法の方が良かったと思う。

その方法が採られなかった理由は、一つには、
用意できる野戦軍の規模と、敵のそれとの比率が不均衡なまでに違っていた事が考えられる。
だがそれに加え、野戦による決戦に向かない呉軍の体質というものがあったのかもしれない。

呉軍が野戦を行っている、と言うより、三国共に、
両軍が戦闘隊形を整えてぶつかり合う、純然たる野戦を行っている事が殆ど無い。
だからこれは、呉軍のみにかかっている事では無いのだけれど、呉軍は他国より更に少ないように思える。

よくある記述が、「某の陣地を陥落させた」「〜ヶ所の陣地を陥落させた」とかってもの。
火力が優勢で、戦闘隊形と戦術機動によって敵を撃破するような戦いよりも、
戦場に野戦陣地を構築し、それの攻略に終始する陣地戦が常態だったんだろう。
そういう戦闘が常態では、十分な野戦軍を以ってしても、敵を早期に撃破するのが難しく、
決着がつくのに数日以上かかってしまう可能性が高く、要塞監視と野戦という方法よりも、
自分の構築した陣地線を敵に攻撃させる方が、結局は有利だったのかもしれない。

だから陸抗の方法は、当時としては合理性を追求したものなのかもしれないね。

109 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/31(月) 00:31:38
実際、羊祜というのは、この時代を代表する名将十選に入るほどなのだろうか?

彼の指導した戦争と言うと、やはり西陵の戦いになるわけだが、
あの時の羊祜からは、特に冴えというものを感じない。

彼の兵力が8万なのか5万なのか、いまひとつはっきりしないが、
江陵に向かった羊祜、襄陽より陸路西陵に向かった楊肇、
巴東より水路西陵に向かった徐胤の三人が主な指揮官なのは確か。

楊肇の通った道というのは、恐らく陸抗らが永安を攻めた時に胡烈が用いたのと同じだろう。
この時は、胡烈は2万とされる軍を西陵に向かわせたが、その数年前の王基の言葉にあるように、
この道は険しく、また、羊祜を弾劾する上奏でもその事は述べられている。
西陵までではなくとも、公称2万の軍勢を通した実績がある道路であったが、
その上奏においては、楊肇の軍が少なかった事が書かれている。
やはり、最大でも楊肇の軍は1万を大きくは超えない兵力だったと思う。

陸抗の方であるが、同様に羊祜を弾劾する上奏に拠れば、3万を過ぎなかったとある。
これが荊州全体、すなわち楽郷や公安、江陵等に駐屯していた守備兵を含むのか否かまでは書かれてないが、
呉全体の総兵力や、荊州におけるそれまでの動員実績を考えると、それでは少ない。
これは、陸抗の手元にあった兵力と見た方が無難だろう。
羅憲を永安に包囲した時、留平を増援に得ていたとは言え、施績麾下の到着以前から、
3万を率いていたしね。

歩闡の兵力も、西陵督だった歩協の兵を引き継いだだけだろうから、数千と言ったところだろう。

さてそうすると、楊肇と歩闡をあわせても、2万数千で包囲する陸抗の半数程度になる。
自分が江陵に行けば、西陵の包囲は自ずと解けると思ったんだろうけど、
少ない事には変わりなく、この当りの羊祜の見積もりは甘かったと言わざるを得ない。

110 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/31(月) 00:53:19
羊祜自身が江陵に到着した後、彼は何もしていない。
徒に時間を浪費しただけと言える。

ただここで、陸抗伝にある江陵の堰に関する話を考えてみる。
それによると、羊祜は江陵の堰をそのままにさせて、船で物資を運ぼうと考えていた。
この堰によって、漢水と長江が江陵周辺で繋がっていたわけではないだろうし、
ただ江陵まで運ぶだけなら、堰が切ってあろうがそのままだろうが変わりないはず。
と言う事は、江陵周辺の、恐らく沮水等の合流する枝江の南において大きな水量を確保する事で、
そこに船団の基地を設け、以って羊祜西進の助けとしたかったのではなかろうか?

もとより江陵の軍勢に、城を出て逆襲に転じる事が可能なほどの兵力は無い。
とするならば、西陵より江陵へ向かう陸抗を迎え撃つにしろ、
西陵の包囲陣地を攻撃するにせよ、羊祜が西進する事に問題は無い。
羊祜の本隊が西陵に到着すれば、恐らく西陵の包囲は崩れ去っただろうから、
実は、この堰の問題が、勝敗を決定付けた一つの要素だったのかもしれない。

しかし、堰を維持する事で長江に大船団を乗り入れる事が可能となったとしても、
呉の船団の攻撃も予想されたので、実施されたとしてどこまで効果があったかは分からない。

とりあえず、羊祜を名将十選に入れるかどうかは、呉討伐のプランにおける、
彼の貢献度がどの程度であったのかを詳しく計量する必要があるだろうね。

111 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/03/31(月) 01:53:39
果たしてどれだけの人が読んでいるのか分からんし、ここにこれだけレスするなら、
ブログの方も更新した方が良いんじゃないかとも思うが、続ける。

羊祜による呉討伐のプランが具体的に示されたのが、晋書羊祜伝の羊祜の上奏。
これがいつの事かは分からないが、二度目の上奏があり、羊祜が咸寧四年(278)に死んでる事を考えると、
同三年の冬に何攀が羊祜の元を訪れる前の事だろう。
つまり、この上奏は、何攀の案を取り入れてないものという事になり、羊祜の負う所が大きい。

それによれば、
・梁、益の軍が水陸両道より呉へ攻め入る事
・荊州の軍が江陵へ向かう事
・羊祜直轄軍と豫州の軍が夏口へ向かう事
・自余の軍は秣陵(建業)へ向かう事
となっている。
対して何攀のものは、
・青、徐の軍は京口に
・揚州の軍は秣陵に
・兗、豫の軍は淮水を越え桑浦?に
・荊州、羊祜の軍が夏口に
・梁、益の軍が長江に沿って
というものだね。

揚州方面の作戦、江陵について言及しているかどうか、
豫州の軍の向かう桑浦が何処か分からないが、その点を加え、
三点が大きく異なる所だろう。
戦力の配分や細かい点の相違は他にもあるけど。
最終的なプランは、この二案を元に羊祜らが練り上げたものだろうけど、
実際の作戦においては、恐らく王渾の独断によって、揚州軍の動きは明らかに違う。
また、荊南諸郡の攻略が行われているのも相違点だろう。

羊祜、何攀両者のプランの相違、推測される最終案と実際との相違。
こういった点を考える事で、羊祜の働きがどれだけであったか見えてくると思う。

112 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 13:13:09
>>108
話しの腰を折ってしまうが、そもそも「野戦軍によって救援軍を撃破する方法」なんてものの確実性を考えたら、
首肯しかねる意見に思えるんだが。

「自身の野戦軍の規模が、敵に比べて明確に違って(少ない)」いなかったら野戦に持ち込むべきだった、って事?

拠点に籠もってそこを相手に攻めさせる(自分は迎え撃つ)方が、
(要塞監視に兵を割きつつ)うって出て野戦を挑むより有利であることは、
あの状況に限らない一般的な原則じゃなかろうか。

あの時代で言えば、
四次北伐時に祁山を囲む諸葛亮が、山河の険を駆使して築きあげた堅陣に攻勢をかけた司馬懿が破れ、
姜維が255年の狄道包囲時、城に監視を残して先に救援軍を撃破しようと陳泰を攻めたが破れなかった。

当然準備万端迎え撃つ側が有利だし、(そうはできない事情があるから)野戦に持ち込む必要が出てくる。

羊コの江陵包囲なんかはまさに陸抗を誘い出す為の布石で、
それが叶わなかったから一軍を割いて派遣し西陵を窺わせたのだろう。
(楊肇の兵力に関しては、晋書の記述差の三万人が総兵力と羊コが指揮する部隊の兵力差と考えると、
 1万を大きくは超えない兵力という推察に同意する。多く見積もっても二万までだろう)

また、ここで羊コの方ならそれこそ総勢八万とも云われた大兵力を駆使し、
主力にて西陵を包囲する陸抗を攻める選択肢もあったろうけど、実際にはやっていない。

俺としてはやはり堅固な包囲陣を攻めた時の被害の大きさを慮ったのと、
陸抗の発言などから江陵の守兵は少なくなかったのではないか(逆襲に転じる事が可能)と思うのだがどうだろうか。

113 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 15:31:23
>>112
野戦に打って出るのが良いか、陣地に籠もってるが良いかを判断するのは、
慎重か大胆かというのが大きいだろう。
自軍の敗北と戦力の喪失を恐れれば、野戦なんて選択しないだろうが、
そのリスクを恐れない人間ならば、野戦を選択する。
「確実じゃないから良案ではない」と言うのは、個人的にはあまり歓迎できない考え方だね。
戦力劣勢なら、尚のことリスクを恐れず行動すべきだと思う。

それが優れた機動の後の敵の降伏によってもたらされるにせよ、
戦場における敵の殲滅によってもたらされるにせよ、
敵軍を破る事ができなければ、通常、戦争は終わらない。
急いで攻める必要が無ければ、どんな要塞に籠もっていようと、脅威には映らない。
戦いの主導権を握るという意味では、バトルドクトリンや戦術機動を駆使できる野戦の方が、
陣地を固守するよりも優れており、より指揮官の力量に戦果が依存する。
もちろん、指揮官の力量がものを言うけど、2倍程度なら撃破できない事は無い。

不確実であるという事は、劣勢を覆す要素もあるという事。

「拠点に籠もって相手に攻めさせる」ってのは当然、有利は有利だと思うよ。
ただ、陸抗のは要塞ではなく、contravallationとcircumvallationによる、
内外に設けた堡塁線であって、正面はかなり広くならざるを得ず、
多数の敵に攻撃されれば、劣勢な陸抗の戦力でカバーできたとは思えない。
二重堡塁線と野戦を天秤にかけた時、俺だったら野戦を選択する。


114 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 15:32:53
>>112
次いで、江陵とかの話だけど、陸抗の二重堡塁線は、そもそも大軍に対して有効だったのかは不明。
カエサルのアレシアでは、多数のガリア人を撃退できたが、
スペイン継承戦争では、仏軍は戦力で劣った敵軍にすら突破されている。
陣地というのは、しっかりと構築されていれば、確かに優勢な敵を拒止し得るものだけど、
そこに機動の余地は無く、指揮官の想像力が戦況に決定的な影響を与える事は無い。
また、敵を前にして、それを自由にさせておく事は、考えている以上に精神を消耗する。
陸抗も、楊肇率いる少数の軍しか到着していなかったにもかかわらず裏切りが発生しているしね。
こういう状況で羊祜が到着すれば、雪崩を打ったように瓦解した公算は低くない。

陸抗が西陵に大きな包囲陣地を築いているという報告を羊祜が受けていたなら、
それを簡単に手放して江陵には向かわないというのも予測できただろう。
仮に江陵に逆襲に転じるだけの戦力があったにせよ、要塞守備兵に満足な野戦ができるわけも無いのだから、
あまり大きな戦力を割かずとも、羊祜は西進できたはず。
江陵に数万もの兵が駐屯していたなら別だけどね。
陣地から引っぺがした方が良いから、羊祜もそうは思ってただろうけど、
西陵に向かわなかったのは、陣地を攻めたくなかったからとは思えない。
まぁ、この時代の二重堡塁線の有効性がどうであったかにもよるけど。

115 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 17:05:09
>>113-114
「目標達成により確実な案の方が良案である」というのは議論を待たないと思っていたが、
この場合は「情勢的に慎重策がより確実な案とは限らない」という主旨と受け取っていいのかな?
そうでないなら、言ってくれればもう首突っ込むのは止めておく。

主導権の奪い合いというのは、ようはどれだけ有利な体勢で敵と相対せられるかということであり。
指摘の通り攻める必要のない堅陣が意味のないのと同様、
特に利点のない状態で野戦に持ち込んだって意味はないだろう。

敵が攻めてくる(その必要がある)から、陣地を固守して迎え撃つことが優れてる、
また有利な体勢で戦闘を進められる状態にある(例えば前後で挟撃できるとか)から、野戦を選択することが優れてる、
戦略的な観点における主導権争いなら、こういったものの筈。

局地的な観点で一箇所を守れば固定され、攻めて出れば広く選べる、
だから戦術的な主導権争いにおいて野戦の方が優れている(選択肢が多い)ということなんだろうと思うが、
この二つの利点は概ね前者の方が優るというのが俺の知ってる常識論。

西陵の陣地がどれだけしっかりと構築されていたか、は確かに今となっては楊肇を防ぎえたことしか判らず、
呉側の結束に不安が残るのも事実だが、諸将の反対を押し切って長期間をかけて作った陣地に
おいそれと不備があるということもないかと。

江陵の戦力については、
貴方が「数千程度だろう」と推察した西陵内の軍勢を慮り陸抗が本格的な追撃を断念したように、
「要塞守備兵に満足な野戦ができるわけも無い」と断じるのは早計。
言葉尻や表現にいちいちイチャモンつけるのはあまり宜しくないが、
恐らくは徐胤にそういしたように、それなりの戦力を分散させる必要があっただろう。

116 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 17:10:53
続きね。

羊コは初め江陵を攻める様子を見せれば阻止のために陸抗が来るだろうと考え、
そこで陸抗を迎撃して破って…というプランを立てたが失敗。

次に楊肇らを派兵して西陵攻囲の勢いを弱めつつ、自ら本格的に江陵を攻勢して陥落させようとしたが、
先に楊肇らが耐え切れず瓦解、敵地での孤立を避けるため撤退…という経緯だと思う。


羊コの方に(戦力的優位に立ちながら)慎重策に過ぎ、
リスクを犯してでも結果を出す果断さが無いと非難されるなら庇おうとは思わないが、
あの状況で陸抗が陣地も捨てて決戦を挑みに行くことが、より良い方策だったとは思えないな。

117 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 18:16:34
>>115-116
あなたの批判は、「野戦は勝利できるかどうかが確実でない」という意味だと思ったが。
主力を撃破できれば晋軍が撤退するのはほぼ確実、となると、
確実性という論点は野戦に勝利できる公算にかかってくるもんだと思った。
で、そういう場合に、勝利が確実でないから野戦をしない、という考え方は批判されるべきって事ね。

防御は確かに強力だけど、あるラインを過ぎると、一気に崩壊して壊滅的な打撃を受ける。
羊祜が西陵まで前進した場合に、二重堡塁線がそうならないとは言えない。
「勝ったから正しかった」と言われればそれまでだが、
二重堡塁線に籠もっている事が万全だったとは、俺には思えない。
羊祜が西陵まで来てしまったら、最早陣地を固守する事しかできなくなるし。
それに赤谿から故市まで、恐らく西陵の全周を包囲した陣地だろうから、
単純にcontravallation、すなわち西陵と対面する堡塁線だけでも、その正面は数kmだろう。
さらに後方の敵に対する堡塁線も同様に数kmに達しただろうから、
少ない戦力で堡塁線を防御しきれたとは、自分にはどうしても思えない。


主導権の話は、純粋に戦術的なものだよ。
まぁ、陣地防御も、その位置の保持にのみ努力を傾けるようなら、戦略的にも主導権は握れないけど。

と言うか、ところどころ論点がずれてるように感じる。
敵主力を撃破するつもりなら、そもそも西陵に二重堡塁線など作るべきではないのだし、
「陣地を放棄して羊祜を撃破すべし」というわけではないんだね。
あとは、野戦に対する認識もずれてるかな。
戦闘の優位は戦略機動によってのみ作られるわけではなく、戦術機動によっても作られる。
マラトンもイッソスもカンネもファルサロスもリュツェンもロイテンも、
戦略における勝者の優位など殆ど無かった。
この辺りも、以前話した理想の指揮官像も影響してるんだろうね。

118 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 18:23:49
「要塞守備兵に満足な野戦ができない」と言うのは、断じるのは早計にしても、
そういった傾向は確実に存在する。

戦闘というのは、兵士が集まればできるというものでもない。
明確なバトルドクトリンのもとで、平時から厳しい訓練を積まねばできるもんじゃない。
そりゃ、戦う事はできるけれども、正規の野戦軍に対抗しうるとは思えない。
ゲリラ戦を展開するなら別だけど。

陸抗が西陵の守備兵の動きを考慮したのも、その長大すぎる正面を維持するには、
おいそれと陣地から軍を抽出できないからだろう。
初めから監視の為の陣地と、それを守る為の戦力を割くだけならば、
十分に要塞守備兵に対抗しうる処置は、羊祜には可能だったと思うよ。

羊祜が尚考慮したとすれば、東から援軍が来るかもしれないという事かと思う。
要塞の監視はできても、羊祜の本隊が離れては、増援に対抗しきれないって事なんじゃないかな。

119 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 18:30:21
そういや、これだけは言っとくと、俺は羊祜にしろ陸抗にしろ、そんなに叩きたいわけじゃない。
俺は天邪鬼な所があるから、賞賛ばかりされるような人物に対しては、
疑問を呈したくなるんだよね。

ただ、そうする事で、無批判な賞賛よりも、結果としては良きものが得られるだろう、
という目論見もあるけどね。
そういう批判を潜り抜けてこそ、真に優れた評価が下されると思うし。

120 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 19:41:26
>>117-118
まさしく野戦に勝利できる公算を慮ったわけだが。
「慎重か大胆かが決定する」わけじゃないだろうと。

羊コ軍が大軍を持って囲むということは遂になく、
他に類似例を知らない俺にはそれがどれだけ困難に思えるか判らないためなんとも言えないが、
三万人を動員して堡塁を連ねて尚防御しきれぬと断じるほどの戦力差があるとする方が信じられない。
川も通った険阻な地形、守るに適した位置にもあるのに。
まぁこれは無知故の愚考なのかねぇ。


戦術機動における優位なんてものを、今現在の視点からみて語りようがあるのかという問題がある。
「自分なら野戦を挑む」というが、じゃあ具体的にこんな機動戦をして羊コを撃破します、とか言える?

錬度の話をすれば、晋の野戦軍だって基本は各所の駐留兵の連合だろうに、
江陵の駐留兵と晋軍にどれだけの差があるんだ?
かつて江陵に駐屯していた朱然の逸話にもあるように、同様に平素より訓練を積んでいるだろうし、
貴方がイメージするような差があったのか疑問だ。

あの戦役で揚州軍の動向は全く見えないのは気になるよね。
以前なら数ヶ月もあれば増援の派遣が見られたもんだが…

121 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 20:11:15
>>120
前面と背面あわせて、守るべき正面は10km以上はあったと思う。
仮に10000mに3万人が均等に配置されたとすると、1m当り3人。
対する羊祜は、3,4万の戦力を、背面に限定はされるが、その正面の何処だろうと、
自由に攻撃する事ができる。

陣地を設けたと言っても、木柵と塹壕を、後は精々逆茂木を連ねた程度のものだろう。
敵は何処に戦力を集中するか分からない上、長大な正面を長期にわたって維持できるとは、
少なくとも自分は思えない。

あと、要塞守備兵の訓練と、野戦軍のそれとは少し違う。
封建軍隊のような寄せ集めならそうではないが、普通、
野戦軍というのは決められたバトルドクトリンを想定した訓練を積む。
まぁ、封建軍隊も、部隊それぞれが歩騎混合の独立戦闘単位だろうから、
単位ごとのバトルドクトリンに沿った訓練は積んでるだろうけど。
要塞守備兵を掻き集めて、フリードリヒ大王のやった斜行陣ができるか、
と問えば、恐らくできないだろう。
どういうタイミングでどういう機動をしたら良いかが、要塞守備兵には分からないから。

どういう風に羊祜を撃破するか、なんてのは、情報が少なくて自分には分からん。
戦場から自軍、敵軍の様子まで自分で決めて、それでシミュレーションしろってんならできるだろうけど、
そんな事に意味は無い。

俺が嫌なのは、「陸抗が二重堡塁線を設けたから勝てた」とか、
「二重堡塁線でなければ勝てなかった」とかって手放しで褒める事。
そういうのは、意識的にせよ無意識的にせよ、他の可能性を切り捨てているからね。

122 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 21:27:19
>>121
実際にその長大な正面面積を、楊肇の時は数ヶ月単位の長期に渡って守りきり大きな被害を与えたわけだが、
貴方の考えでは1、2万程度ならそれができるけど、3、4万だと途端に不可能になる類のものか?
その言葉通りなら楊肇にだって容易に突破できそうなものなのに。

ならその広大な戦線の長さが正しいのか、堡塁の内容と効果はいかほどなのか、
そもそも長大な戦線全てに均等に戦力を配置するような方策を取るのか、
合わせて考えてみた?

中段の内容が後漢末〜三国時代の軍制において当てはまってるのか甚だ疑問だ。
各国が各地の駐留軍には各個バラバラの方法で訓練を施し、統一を図ってなかったなんてことになるなら、
その各国の野戦軍は、一体いつどこから湧いて出て来てるのかと。

当時の中国の軍隊に野戦軍と駐留軍に明確な差があったこと、
駐留軍を束ねてもそれぞれ合図もバラバラで満足に指揮ができませんなんて窺わせる史料はあるのだろうか。

まぁどういう風に撃破するかシミュレートするのは無理だろう、と思って聞いたわけだが、
俺にしたらその如何こう言えない部分で有利に進めることを前提とした作戦で、
全体の作戦を四の五のされる方が嫌だよ。

「陸抗側が少数ながら優れた戦術機動によって多勢の羊コ軍を撃破するのが最善の策だ」、とかね。

その「陸抗が二重堡塁線を設けたから勝てた」ってのは、
俺が手放しで陸抗の作戦を支持して他の可能性を切り捨てている、と言ってると捉えていいの?
それとも一般論として「成功だけみて検討を加えてない場合」のこと?

123 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 22:15:18
>>122
最後の段についてだけど、それは一般論だよ。
んで、作戦計画というのは、もとより多数の不確実な要素から成り立っているのだから、
それに対する批判も、当然、多数の不確実な要素を含む。
そういった批判は、当該戦役が敗北に終わった場合は、大抵の場合許されるのに、
勝利に終わった戦役を批判する事は、それ自体が忌諱されたりする場合が多くある。
俺が言ってるのは、そういう現状は嫌だ、って事ね。

二重堡塁線が羊祜の到着で破られたかどうかも、当然、俺には断定できない。
ただ、楊肇の軍だけでさえ、呉軍は動揺し、裏切りまで発生していた。
そうした状況で、更に数万の増援が、それも大将であり、
呉でも慕われていた羊祜が来た後も、それが瓦解しなかった姿は俺には想像しにくい。

軍制に関しては、史料が無い以上、あったと断定はできないと思うよ。
通典には歩兵の、六韜には騎兵の基本的な動かし方が書かれてはいたが、
それらの部隊を組み合わせ、戦場でどう機動させるかまでは書かれていないから。
界橋の戦いというモデルケースはあるが、それしか無いから、それを全体に拡大はできない。

あと、満足に指揮ができない、とまでは言ってないでしょ。満足な野戦ができないというだけ。
それに、要塞守備兵を組み込むだけなら野戦はできるだろう。
俺が言っているのは、要塞守備兵のみでする野戦の事だね。

それと、「陸抗側が少数ながら優れた戦術機動によって多勢の羊祜軍を撃破するのが最善の策だ」
なんて断定した覚えは無いよ。
>>108を読んでもらえば分かるが、「個人的には野戦が良かったんじゃないかと思う」と言った上で、
その行動を否定し得る種々の要素を述べているに過ぎない。
少なくとも、この戦役を考える上では、俺は野戦を否定しているのが分かると思う。

だから、最初に言った事と被るけど、それ以降の議論は全て、
西陵の戦いを題材にはしているけど、戦争における一般論を述べたものだよ。

124 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/01(火) 22:22:56
>>122
全然関係ない話で恐縮だが、もしかするとあなたは、
少し前に朱然の話とかにも付き合ってくれた人?

125 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/02(水) 00:40:45
さて、多くを推測にしか拠れない以上、
お互いにこれ以上の議論に意義が無くなってきたように感じる。
水掛け論は嫌いなので、お互いに容れるべき点は容れ、
拒否する点は拒否するという事で、この辺で終わりにしたい。

これは俺自身に対する戒めのようなものなんだけど、
俺は戦術が好きなので、自然と、それについて詳しい西洋の戦史に傾いている。
武経七書の類も一通り読みはしたが、孫子は別として、俺の軍事に対する考え方の土台にはなっておらず、
その九割以上はジョミニ、クラウゼヴィッツ、リデルハート等の西洋発の名著と、
数々の西洋戦史なんだよね。
だから、さっきの軍制の点で呈せられた疑問のように、
自然と西洋的に軍事を考えてしまっているという欠点もある。

もとより、俺の意見を頭から信じる人などいないと思うけれど、
俺の意見を読む際は、その点を留意して、眉に唾つけて読んでもらいたい。

126 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/02(水) 12:55:33
>>124
三戦板で厚顔無恥な人間を見かけたら、大体俺さ。今や人も少ないしね。
別に呉の人間の話題だけ、って訳でも無いんだけどね、一応。

127 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/02(水) 13:10:07
>>126
いやいや、厚顔無恥だなどとは思ってないよ。
ただ、話した感じが似てたから、そうなのかと思って。
とすると、やはりスレに参加している人は少ないねぇ。

名将の話を続けた方がいいのか、或いは話題の転換を図った方がいいのか、思案のしどころだな。

128 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/02(水) 15:09:44
西欧か東洋か以前に時代錯誤じゃね?>軍事論
1000年から違う時代の軍事理論をそのままあてはめるとか無意味でしょ

129 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/02(水) 18:03:42
そっくりそのまま当てはめてるつもりもないけどね。

ただ、戦略にしろ戦術にしろ、その根本の原理は不変だと思ってるから、
そういった要素を考慮するのは構わないことだと思うけど。
まぁ、俺の考えてる事が無意味だと思うならそれはそれで構わないよ。
軍事にしろ歴史にしろ、俺が素人なのは変わりないからね。

130 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/06(日) 23:57:16
1日に出た、渡邉義浩氏の「『三国志』軍師34選」という本を読んでみたのだが、
それの諸葛亮の項目の所で、陳倉の攻囲は陳式の武都・陰平攻略の為の陽動だと書かれていた。

そんな風に考えた事無かったけど、確かによく考えると、
陳倉の攻囲が228年末、郭淮を退かせ二郡を攻略したのが翌年の春だから、
これらが全く関係ない戦役と考える方が無理がある。
諸葛亮の失策としてよく挙げられる陳倉の攻囲だけど、
陳式の二郡攻略と合わせて考えると、実は高く評価すべき事だったのかもしれない。

131 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 00:14:56
> 陳倉の攻囲は陳式の武都・陰平攻略の為の陽動

ちょっとムリがあり過ぎないか?

・諸葛亮、陳式を武都・陰平二郡に派遣。
・郭淮、軍勢を率いこれを撃とうとする。
・諸葛亮、牽制のため犍為まで出てくると郭淮は撤退。
・陳式、武都・陰平二群を平定。

陳倉攻め以外は涼州方面に軍を動かしてるから、諸葛亮の目的は一貫して涼州方面あった。
それをカモフラージュするための陳倉攻めという考えなのかな?
陳倉攻めの経緯、曹真の読みとか、諸葛亮の撤退理由など、を考慮すると、単に直線的な攻めはムリと判断した結果のように思えるけどなあ……

132 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/07(月) 00:42:06
>>131
両戦役の間は殆ど間が無いか、或いは重複しているぐらいのものなんだよね。
とすると、少なくとも、「陳倉は失敗したから、武都を攻めよう」なんて、
悠長な判断の元の行動ではないと思う。

むしろ、ほぼ同時期に兵を出し、陳倉の攻略と二郡の攻略を同時に狙ったものだと思う。
司馬懿と司馬孚の建言があるまでは、隴西で蜀軍に当れる戦力は数千、恐らく5千以下しかない。
東方からの援軍を遮断しさえすれば、少なくとも武都・陰平の攻略は難しくない。
折りしも、要衝陳倉の防備は不十分であったので、これを攻略して、
東方から来る魏軍を迎え撃ちつつ、陳式に二郡を攻略させる、といった感じだったのだと思う。

しかしながら、陳倉は予想以上に堅く、援軍到着前に攻略できなかった為、
援軍が武都の状況を知りそこへ援軍を出そうとする前に退き、
自ら武都へ出て攻略を急いだ、という事なのだろう。

陳倉の攻略はならずとも、故道の隘路を押さえておけば魏軍が武都へ真っ直ぐ来る事は防げるし、
二郡の攻略という戦果は保障される。
第一次北伐の手腕を考慮すると、陳倉攻略という単純な戦略だったとするよりも、
上記のような戦略だったとする方がしっくり来るように思える。

133 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 20:19:00
228年春 北伐
228年冬 陳倉攻め
229年春 陳式を派遣し武都・陰平侵攻
230年秋 魏の侵攻
230年冬?魏延らを派遣し陽谿で郭淮らを撃ち破る
231年春 北伐
234年春 北伐

か……
微妙だなあ……

134 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/08(火) 22:49:20
>>133
微妙ってのは、連動してたか微妙って事かい?

明帝紀とその注に引く魏略、曹真伝に拠れば、諸葛亮は12月の10日以降に陳倉に到着し、
20日あまり城を攻撃した後、翌年春(正月)に退いている。
全軍を漢中に退かせたとして、沔陽に着くのは正月末か2月に入ってからだろう。
そうすると、作戦の準備期間なんて殆ど取れない。

やはり一連のものと考えた方が自然に思えるけどね。

135 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/08(火) 23:24:19
そもそも第三次北伐はよく分からんのよね。

陳式はどこを策源とし、どこまで前進したのか。
郭淮は陳式迎撃の為にどこまで南下したのか。
そういった事が書かれてない。
まぁ、陳式の策源に関しては、恐らくは漢中じゃないかとは思うけど。


恐らく上邽にいたであろう郭淮が、武都・陰平へと向かうには、
諸葛亮が第一次と第四次北伐で用い、諸葛緒が討蜀戦役で用いた道路、
すなわち、祁山、建威を経由して南下するルートが最も適しているだろう。

とするならば、諸葛亮が建威に至ったという事が、連絡線が遮断された事を示す。
郭淮が下弁周辺に留まっていたなら、諸葛亮が建威に到着する前に撤退するだろうから、
陳式、郭淮共に二郡の奥深くまで南下していたか、諸葛亮がその前進を完全に秘匿していたかになる。
前者はともかく、後者であった可能性は低いだろうね。

また、建威を占拠されたとするならば、郭淮は隴西方面に抜けて撤退した可能性が高いと思う。

136 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/09(水) 22:29:09
陳倉の攻略戦について、個人的に不自然だと思う点として、
郭淮が全く動いていないという事もある。

数万に包囲される中、たったの千人で守っている城なのだから、
例え雍州刺史麾下の数千と言えども駆けつけないのは不自然だと思う。
包囲を解く事はできないにしても、城兵を激励する効果もあるし、
実際三国志の中でも、徐晃や夏侯儒がそんなような事をしている。
また、五丈原の時は郭淮は真っ先に駆けつけてるしね。

何らかの理由で郭淮は動けなかったんだと思うけど、
既に陳式が動いていたのか、或いは、
諸葛亮伝の陳倉での王双撃破と二郡平定の功績を称える詔勅の中に、
羌族や氐族を降した事が書かれているのを考慮すると、
異民族の蠢動が既にあったのかもしれない。


どうでもいい話なのだが、何かヒントになるものはないかと思い、
html化されている姜維北伐スレの初代スレを読んでみた。
特に刺激は受けなかったが、2スレ目の後半からレスし始めたと思い込んでいたのが、
自分の勘違いだったのが分かった。
どうやら、末期からではあるが、初代スレから参加していたようだ。

137 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 01:03:09
どうにもレスが付かんね。
俺のいない間に伸びてたりすると嬉しいが、スレの内容や板の状況を考えるとそうもいかんか。


さて、何攀の訪問を受ける前の、羊祜のオリジナルと思われる呉平定作戦案だが、
これはやはり、揚州における作戦の短調さが気になる。
複雑な機動で無ければいけないという事もないし、単純に見える機動が、
実は優れた効果をもたらすという事もままあるので、それを以って批判はできないけどね。

羊祜の案だと、揚州、兗州、徐州、青州の諸軍、恐らく10万近い数になるであろう軍が、
建業目指して前進する事になっている。
これだけの数だと、益州と揚州と、どちらが主攻なのか分からないくらいだな。
この前進が成功したか否かは、今となっては分からないが、
タイミングによっては、敵の精強な水軍が残っている状況で、
大河を渡河する必要が生じてくる。
数kmの川幅を持つ大河を、敵水軍の眼前で渡河するという事は、相当な被害を覚悟しなければならない。
そうすると、結局、大軍を建業に向かわせたとしても、
攻勢の最終局面は、王濬の水軍が到着して敵水軍を蹴散らした後という事になる。

数を恃めば渡河は成功するかもしれないが、敢えて被害を増すような事はしないだろう。

やはり、全軍を集中させて建業の前で渡河するよりも、正面を広く取り、
複数ヶ所で渡河し、江南に渡った後に建業に向かう方が効率が良い。
京口周辺と建業周辺に渡河点を分散させる何攀案の方が、揚州における部分は優れてるだろう。
ただ、何攀案は、その陥落が荊州崩壊の起点となった江陵の攻略について言及していないのが気になるところではある。

138 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 01:05:29
久々にageる。

たまには兵站の話をすると、昔から、軍隊の消費する物資の全てを輸送で賄えた事はないんだよね。
現代みたいに、兵器の発達によって、弾薬など現地での調達が不可能な物資が、
軍需品の大多数を占めるようになってからは別だけどね。
例えば、数万の軍隊が1日に消費するであろう食糧の量なんかを計算した事のある人は分かると思うけど、
馬鹿馬鹿しいぐらいの量になるので、全てを輸送できるわけが無いってのは容易に想像がつく。
三国時代も当然の事ながら、そういう状況だったと思う。

んで、そういう時の軍隊ってのは、実は、移動している時よりも、
停止している時の方が物資の欠乏が起こりやすい。
また、前進に使った道路を後退に使うのが困難にもなる。

城塞が効力を発揮する理由の一つにはそういう事もある。
城塞を包囲する為に軍隊を停止しなければならず、
それにより物資の徴発が狭い範囲に限定されてしまうので、
すぐに徴発し尽くして欠乏するんだよね。

それを防ぐ為には、城塞に籠もる軍隊そのものを喪失させるのが手っ取り早い。
北伐から窺える姜維の戦略思想は、そういった決戦的なものが読み取れるけど、
軍隊をなるべく移動させ続け、城塞の包囲という愚を犯さないという兵站上の利点もある。
補給困難な土地を戦場とした事を考えると、当然の帰結と言えるのかもしれない。

139 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 01:06:21
上げたはずが上がってなかった

140 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 02:16:55
予め言っておくが、次スレはいらんと思う。

141 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 17:47:08
>>140
>予め言っておくが、次スレはいらんと思う。

何故?
俺は常に読んでるし楽しんでるんだが
寂しい独り相撲の感覚からの結論なら思いとどまってもいいいのでは?


142 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 19:12:29
一人でネタを振ることに疲れたんだろ?
まあ、オレも多少のリアクションはしてもそんなに深くは語れないからなあ。
残念だがしょうがない。他の人が続行することに全く異論はないが今以上にネタを振ってくれるかわからん。

143 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 19:39:56
いやいや、別に一人でだらだらと語るってことに関しては、
それこそ4年前の姜維北伐スレの頃からあまり変わってないから慣れてるんだよ。

ただ、今回はいつも以上にとばしてレスしてはみたけど、
やはりどうにも、無い話題を無理矢理ひねり出してる感が強い。
話す事があるから書き込んでいるのではなくて、
スレを維持する為に書き込んでいるような感じになっているから、
続けても意味は無いだろうと思い始めてるんだよね。

144 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 19:51:05
後期だけじゃなくて三国志全体の考察スレに変えればどうで?
ジョミニさんのような考察って2chでは貴重だしなくなると寂しいなってのがほぼロム専の意見

145 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 20:09:29
姜維登場以前に関しては、やはり俺自身熱意があまり無いからね。
何か強く刺激するものが無い限りは、あまり書く事も無いように思える。

どの道落ちるのは数ヵ月後だし、それ以降に立てる事も止めないけど、
レス数が大幅に低下するのは否めないと思う。

146 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/16(水) 01:08:19
どうせだから兵站についてまた述べる。
兵站を語る人が少ないのは、やはり地味だからだろうけど、
実際に考えると、相当に面白いものだというのが分かる。

軍隊を養う方法には、輸送によるものと、徴発等の現地調達によるものとがある。
また、これらの実際について言えば、通る先々その場で徴発したり、
出発点から携行したりという事の他に、予め集積する倉庫を設けるというものがある。
その倉庫に関しても、前方に設ける場合と後方に設ける場合がある。
前者は主として現地で調達した物資を集積し、後者は後方からの輸送による。
ただし、後方に設けた倉庫でも、倉庫周辺の地域で調達する場合もある。

前者は姜維が隴西に設けた邸閣などが、後者は呉が諸葛誕を救援する際に都陸に設けた邸閣などがある。
他にも、夷陵近傍の雄父の、寿春近傍の安城の邸閣、豫州南頓の邸閣などが、三国志には見える。

雄父の邸閣には30万斛以上、すなわち600万〜700万リットルくらいの米が集積されていた。
兵士一人当たり1リットルから1.2リットルほど消費するとすれば、
500万人分程の口糧が集積されていた事になる。戦時における前進用にしては集積された量が多すぎる。
雄父以外にも邸閣の置かれた位置というのは国内が多い。
恐らくは、戦時平時に関わらず、収穫された穀物を集積する施設であったに過ぎず、
単なる穀物倉庫を戦争に流用しているに過ぎないのだろう。

これとは対照的に、諸葛亮が第五次北伐に先立って斜谷の出口付近に築いたものや、
姜維が第三次北伐に先立って羌族の供出によって隴西に築いたものなど、
軍隊の前進をスムーズにする為の、完全な戦時用として築いた例が蜀にはある。
この事実も、蜀における兵站事情の厳しさを物語っている。

147 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/16(水) 01:14:31
あとちょっと思ったのは、全体的に俺を買かぶり過ぎているように感じる。
俺がやってる事なんてのは、実際、大した知識も無しにできる事だと思うよ。
>>143でも言ってるように、考察し始めたのはたったの4年前だし、
話してる事のレベルは2年位前から変わってないし。

148 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/16(水) 17:32:34
>>146
俺は兵站事情に関する考察は好きだがね
以前に食料の消費ネタに関して趙充国伝を挙げた

邸閣といえば、呉の赤烏八年に、三万の屯田民と作士を動員して句容から雲陽
まで運河を開通させた市場と邸閣を設けている
この雲陽は曲阿の名称の方が馴染み深いかもしれんね

あと苦言になるが、話題が地味とかスレ維持のために書き込むとか、わざわざ
書く必要はないだろう
たぶん俺を含めてスレの敷居を高く感じてる人がいるのかもしれないが、
些細な疑問でもあれば気軽に書き込める雰囲気こそ大事ってもんだろう

149 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/16(水) 19:15:55
>>148
これでも数年間同じような事をやってるからねぇ。
今みたいに現状を嘆いた事もあれば、黙々とレスし続けた事もあるし、
多少挑発的な内容のレスをした事もあれば、数週間レスを控えた事もあった。
しかし数年間、全くと言っていいほどスレに変化は無かった。
だから、どう感じられようと、自分が限界を感じた時が限界だと思うのは、
自分としては仕方ないと思うけどね。


趙充国伝と言うと、兵士は日に2リットルや3リットルも穀物を消費するか否かを話した時か。
あの時はそこまで考えが至らなかったが、あの話は、「穀」と書かれているのか、
或いは「米」などと書かれているのかの違いによるものだと思う。
精白する事で、容積は半分くらいになるから。

150 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/17(木) 00:53:21
「些細な疑問でもあれば気軽に書き込める雰囲気」というのは、
当然俺も望んではいたし、そんなような事も何回か言った事もあったけど、
今では半ば諦めてるんだよね。
俺のレスは、他人のレスを寄せ付けない空気を作ってしまうものだ、と考えるようにしてる。

いつまでもこんな話ばかりしてても仕方ないので、兵站―のみならず戦術にも関わってくる―の話をする。

諸葛亮の開発した新兵器元戎は、20cm程度の長さの矢を10発同時、或いは連続して発射するもの。
漢代の弩の臂の長さが60cm程である事を考えると、通常の弩に用いる矢は40〜50cm程の長さだと思うから、
元戎に用いる矢は相当短いという事になる。元戎は臂の長さも30cm強だろうね。

問題となるのは、元戎が通常の弩の10倍の矢を消費するという事。
恐らくは1本20g〜30g程度だと思うけど、1回の発射で10本消費するので、
100回射撃する為には1000本、すなわち20kg以上の量の矢を消費する。
華陽国志に拠れば、連弩士は3千人なので、100回射撃するには60トンの矢が必要になる。
ただ、1回の会戦で消費する弾薬量はたかが知れているので、
流石にこれだけの量を輸送する必要はなかったと思う。
普墺戦争におけるプロイセン兵一人当りの弾薬消費量は僅か7発だしね。
一会戦での射撃を5,6回とすれば、一人当たり1.5kg程度なので、十分携行できる量になるし。

うーん。
弾薬の量が輸送を圧迫するくらいになるんじゃないかと思って書き始めたが、
日に数十トン消費する穀物の方が重大な問題になるのは変わらないね。
元戎だろうと、弾薬が輸送の中心となるような状況にはならない。
やはり時代が下らんとそういう現象は起こらないね。

151 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/19(土) 01:28:40
元戎について疑問なのが、「鉄を以って矢と為し」という魏氏春秋の記述だな。
まぁ、元戎自体魏氏春秋の記述なので、魏氏春秋だからどうと言うつもりは無いけど。
この、鉄を以って矢と為しという記述が、矢全体を鉄で作ってあるという意味だとすると、
かなり不自然な感じになる。
仮に矢の直径1cmとして計算した場合に、矢の質量は114gになる。
それを10本同時に発射するのだから、発射する質量は1kgを超える。
鉄の密度は木材の10倍程度以上になるのが普通だから、木材と鉄製矢じりの組み合わせの方が当然軽い。
ただでさえ有効射程の落ちる連弩に、わざわざ重い矢を使うだろうか?
しかし、通常の矢の作り方だとすれば、「鉄を以って矢と為し」などという記述が残るだろうか?

この全体が鉄製の矢を携行するとするならば、20回の発射をする分だけで20kg以上になる。
兵站の観点から言っても非現実的だな。

152 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 01:48:57
漢書刑法志に、戦国時代の魏の兵卒の武装として、
12石(漢代の度量衡なら372kg)の弩を操り、五十本の矢を背負ったと書かれている。
弩兵の携行する矢の量が、この頃と大きく変化していないとすれば、
三国時代も数十本を携行するのが普通だったという事だろう。
数十本というのを射撃量と考えれば、元戎では同じ回数射撃するのに10倍の矢が必要になる。

仮に1本を30gとしても、500本の携行で15kgとなる。
携行する荷物が矢だけなら背負えない事も無いが、通常、数日分の食糧も背負うし、
甲や武器など、重量のある諸装備を身に付けなければならない事を考えると、
500本もの矢を携行する事は現実味を帯びない。

ただそもそも、少なくとも野戦においては弩をそう何回も射撃する余裕は無いように思える。
魏の兵士も、50本の矢というのは、あくまで戦争全体で割り当てられている量であって、
一会戦で消費する量ではないだろう。

元戎の利点はそこにあるのだと思う。
有効射程は低下するものの、僅かな射撃回数で大量の矢を発射できるので、
会戦の初動において敵火力部隊を掃討するのが容易になる。

153 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 02:29:02
しかしながら、諸葛亮の戦い方は、この元戎の利点をあまり活かしたものではないように思える。
史書の記述を見る限り、諸葛亮は自軍を堅固な陣地に置く事を常とし、
純然たる野戦に踏み切った様子は見られない。

短時間の火力集中による敵火力の打破と、それに続く騎兵の駆逐と側撃という行動を可能にする元戎は、
陣地戦ではなくむしろ野戦によって、よりその性能が活かされる。
そういった点で、姜維のような戦い方の方が、より元戎を活かすものだったのだと思う。

154 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/21(月) 01:27:01
軍隊に補給するに当り、輸送車両を軍団に随伴させるか、
或いは後方の基地と野営地とを往復させるかという問題がある。

三国志、と言うより、中国史全体に言えることかもしれないが、
後者より前者の方法が取られたように記述されている。
また、輜重を後方に留め置いて長駆前進するという行為も、頻繁に記述されている。
つまり、食糧と飼料が軍需品の殆どを占めていた時代であれば、
やはり軍隊の維持は現地調達に多くを拠る事ができたという事である。

蜀における補給が、前者の方式であるか後者の方式であるかを考える場合、
木牛の性能が指標となるだろう。
木牛が3人で運用される車両であるにせよ、4人で運用される車両であるにせよ、
その限界輸送距離は500kmを超える事は無い。
従って、木牛を輸送の中心に据えていたとするならば、蜀が軍団随伴方式を取る事はできない。
その為、基地から野営地までを複数区間に分け、各区間を輸送隊が往復する、中継往復制度が取られる事になる。

中継往復制度でも、軍需品の必要量全てを輸送する事はできないだろうから、現地調達に頼る事になる。
欧州において、それこそ第一次世界大戦まで、軍隊が食糧と飼葉を現地調達によって賄えた理由は、
人口の稠密さに拠るところが大きい。
隴西では、少なくとも戸籍を見る限り、人口稠密度の低さから現地調達で大軍を維持する事はできないだろう。
そこで、蜀における作戦地域では、戸籍に登録されていない人々、なかんずく異民族が重要になる。
異民族の支援、そうでなくとも彼らからの効率的徴発が無ければ、軍隊を維持するのは難しい。
軍隊の行動は、戦略上と言うより、専ら兵站上の理由によって決定される。
従って、北伐の正否は異民族を制する事ができるか否かにかかっていたと言っても、大げさではないだろう。

155 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/22(火) 00:58:11
姜維の任命された倉曹掾とはどういった事を行う掾属なのか、常々考えていた。
続漢書百官志に拠れば、「倉穀の事を司る」とあるだけで具体的な内容は分からない。
通典や太平御覧の職官部にも、詳しい事は書かれていない。
だから殆どを想像に拠るしかない。

郡などに置かれた倉曹掾であれば、郡管轄の穀倉の管理という事は分かるが、
司徒や司空、丞相の幕府に置かれる倉曹掾が何を行うのだろうか?
諸葛亮の場合を考えると、彼は漢中に幕府の中枢を置き、
主として国境防衛と北伐という軍事行動を行った。
とするならば、諸葛亮の幕府は国軍の総司令部のような存在だったと言えるのかもしれない。

さて、そう考えると、少なくとも諸葛亮幕下の倉曹掾は、兵站監のような存在だったのだろう。
編成序列や必要な軍需物資の量を計算していたのは楊儀であるから、彼は参謀総長のようなものだ。
倉曹掾の仕事を考えるに、楊儀の定めた軍需物資の必要量をもとに、
現地での徴発計画の作成と、その実施を行ったのだと考えられる。
徴発すべき村落の殆どが羌胡のものであるとすれば、隴西の地理と彼らの風俗に熟知した姜維が適任である。
彼らを徒に刺激せず、且つ軍隊の前進に必要な量の徴発を行うには、
姜維のような人間が兵站監を担った方が都合がいい。

156 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:38:53
いつも見てるが、なかなか面白い

書き込みたい事もあるけど、規制の巻き添えをくらって携帯からなもんで
長文も漢字の変換も骨なんで御容赦

寂しさや虚しさもあるかもしれんが、息切れしない程度でやってもらいたい

157 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/22(火) 02:10:20
>>156
ありがとう。貴方のようなレスは励みになる。


少し話は変わるが、俺もそれなりの数の軍事に関する著作を読んできた。
やはり、孫子、クラウゼヴィッツ、ジョミニ、リデルハートの四者は白眉と言えるが、
彼らに匹敵する存在として、マーチン・ファン・クレフェルトが挙げられる。
彼の著作で邦訳されているものは「補給戦」くらいしかなく、俺もそれしか読んだ事はない。
しかしながら、この本は―文庫にして400ページほどの量ではあるが―、
極めて有用な、知識―というよりも考え方をもたらしてくれる。
俺の兵站に関する考え方のほぼ全てが、この本に拠っていると言ってもいい。
ブライアン・ボンドなども相当に面白いが、クレフェルトはそれを上回っている。

軍事学の大家であるジョン・キーガンは、読もうと思いつつ今に至ってしまったので、
近い内に手に入れて読むつもりだ。
軍事に興味があるのならば、こういった古典以外の名著も読んでみると面白い発見がある。

158 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 23:03:34
>>130からの陳倉戦の話はちょっと眼から鱗だったわ
呉蜀同盟、孫権からの要請という政治的要素の方に余りに重みづけを課してたのと
どこかで単年度決算的な考えが俺の中にあったみたいだ。新鮮だった

>>151
元戎の矢については鋳造による大量生産ということだと解釈している
矢の短さも当時の弩の矢を打ち出す力の面で与えられた制約によるかと
矢の直径を5mm、矢尺を20p程度と考えると一本当たりの重さは30g程度
恐らくこの30gを出すため矢の長さを短くしたのでは?

>>153
クレーシーの戦いや長篠の戦いに見られるように
射撃による制圧力で敵戦力を壊滅させようというドクトリンを組む軍は
敵の騎兵による衝撃に脆い自軍射撃源を敵から守るために戦陣に於いて
自軍陣地に十分な縦深性を確保しようとする傾向にある
つーかそうしないとまともに戦えない。諸葛亮のとった手はクレーシーや
長篠に通じるもので極めて真っ当な考えと思う。
誘い受けするしかないわなーというのが感想

>>154
諸葛亮集にあるように一年分の糧秣を積載した木牛の総重量は推定で
1.5t程度になると思われるが、これを3,4人で運用できるものだろうか?
当時の古代中国では車というのは車軸が固定されて車輪が回る形式でその上
ベアリングというものが存在しなかった(西洋にはあったけど)
グリースというのはあった筈だが、3,4人で引き回せるものだろうか?
意外と運用に人数を食ったんじゃないかと思うんだが

159 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 23:11:31
尤も木牛については諸葛亮集の記述から力学的に歯車と梃子を組み合わせた
少ない力でもとりまわしの出来るモノだった可能性もあるけどね
あの轅を上げ下げすると牛が進むという記述部分、あれが味噌かも知れん
昔なんかのからくり人形かなにかでそんなのを見た記憶があるけど忘れたw

160 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/23(水) 00:27:53
>>158-159
誰かと思えばニセクロさんではないですか。

陳倉の話は、自分も全く思いついてはいませんでしたので、
渡邉先生の著作を読んだ時は、自分も同様に目から鱗が落ちました。

元戎の矢は、確かに直径を5mmとすれば質量の問題は解決しますね。
自分は昔弓道をやっていたんですが、測ったことはありませんが、
その時の矢が大体1cmくらいだったと思うんで、1cmという数字にこだわってしまったのかもしれません。

陣地に籠もって敵を迎撃する事ができれば、当然、それだけでも敵騎兵への対策になると思いますし、
元戎も威力を発揮するとは思います。
クレーシー等も、敵騎兵に対する障碍と火力部隊の組み合わせで勝利を収めていると思います。
ただ、元戎というものを考えると、通常の弩と比較して、
短い有効射程と長い発射間隔という特徴があると思うので、
その最大の利点は最初の射撃で大きな火力を集中できるという事だと思うのです。
もちろん、1日から数日に亘る会戦全体で考えれば、通常の弩より総火力量は大きいとは思いますが。
それを考えると、迅速な接敵とそれに続く射撃で、一気に敵火力を掃討するのに向いていると思ったのです。

諸葛亮のやったような、決着まで数日以上を要するような陣地戦では、
周辺からの徴発が困難になる攻囲戦と同様な状況にありながら、
それこそ補給を圧迫するほどに矢を消費する可能性もあります。

ただまぁ、自分は野戦が大好きなので、相当バイアスのかかった考えをしているかもしれませんが。

161 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/23(水) 00:32:12
木牛についてはどうなのでしょう。
諸葛亮集には、そんなに労力は要らないという記述もありますし、
5人以上で運用するとなると、そもそも実用に堪えないんじゃないかと思います。
5人で運用する場合、限界輸送距離は300kmを切ってしまいますし、
実際の運用となると、数十kmまで落ち込むと思います。

まぁ、何人で運用する車両なのか書いてないので、実際どうだったかは分かりませんが。

162 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 20:07:05
>>161
木牛についてはわからないことだらけだからはっきりとはいえないが
記述にある積載量とそれを運搬しうる木牛の重さから総重量を推定した場合
4人で運用するなら一人当たり300-400kgを20里輸送する形になる
諸葛亮集にある一日20里行っても人は大いに労すことないというのも
運用人数が書いてない以上、10人で運用して余り疲れないということなの
かもしれないんで。

木牛は思ったより効率は良くないんじゃないかと思う
諸葛亮の後継者の内、蒋エンは木牛に頼らない新侵攻路の開拓を試みてるし
費イは敵が釣りあげられてから大軍を動かす方針を立てたようにギリギリ
まで兵站上の負担を避けた作戦指針に舵を切りなおしてる
姜維は言わずもがな
また蜀平定後の魏晋もこの兵站輸送具への考慮をしてるように見えない
諸葛亮体制下で魏への侵攻を企てようとした時のみ余儀ない採用を迫られ
るような非効率的なものだった気がしてね
実用に堪えないと言うのも殆どそうなのかも知れないと思う

ただ木牛については色々想像を刺激させられる
二組の車軸に8つの車輪、片側二輪だろうと思うんだが
俺はこれ、前は大型ダンプやトラックのような片側二輪のものだと思ってた
しかし前回のレスみたいに考えると二輪の内一つは轅の上下の動きを車輪に
ギア比を変えて伝える歯車だったのかも知れないと思ってるんだな
これはスゲー興奮もので三国志マガジンが未だ健在だったころなら
速攻で大澤さんにメル凸して面白話とかして盛り上がってた処だw

やー何故あのころの俺はこれを思いつけなかったんだろうね不思議だ

163 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 20:27:52
>>160
>元戎というものを考えると、最大の利点は最初の射撃で大きな火力を
>集中できるという事
というのはその通り。俺もどっちかと言うと野戦志向つか諸葛亮チキン杉と
思ってる口なのだが

>それを考えると、迅速な接敵とそれに続く射撃で、一気に敵火力を掃討する
>のに向いていると思ったのです。
このドクトリンは弓兵の運用としては危なすぎると思う
そもそも代表的な成功事例がクレーシーや長篠といったもので
それらは1)敵が射界内での戦闘に踏み込むこと 2)その状態で敵と自軍
の射撃部隊との間に十分な縦深性が確保できていること を前提として成立
している。そうでない場合は敵の高速機動部隊(騎兵)に蹂躙されて糸冬了
って可能性が高いだろ
そもそも諸葛亮が撤退戦で異様な勝率を誇るのも追撃して来る敵部隊はその
侵攻路がフィックスされていてその事自体が弓兵の密集と制圧射撃で迎撃
すると言う視点で言えば一種の縦深性が確保された状態にある訳だから

そうでない場合、素早く近づいて一斉斉射ってのは実際の戦場では無理ぽ
それに近い戦い方は古代ローマやギリシャの重装歩兵のジャベリンによる
投擲攻撃なわけだが弓兵でそういう運用するのは可笑しくないか?


164 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 20:34:59
>>160
>諸葛亮のやったような、決着まで数日以上を要するような陣地戦では、

231年岐山の戦いのことを言ってるのならあれは運動戦だと俺は思ってるけど

165 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/23(水) 20:59:49
>>162-164
木牛は実際、書いてある事が抽象的過ぎてどうにも分かりませんね。

舌とされているものは、腹から垂れ下がっているので、
斜面で下がって来ないようにする為のブレーキだったりとか、
牛の歯とされているものはギアの外から見える部分だったりとかするのかもしれません。
重量も不明ですが、穀物であれば1年分で350〜500kgなので、
全体で見れば1tはこえてたかもしれませんね。


元戎の運用はどうなんでしょう。
偏箱車や他兵科、他火力部隊との連携、騎兵の迂回不可能な狭い正面での戦闘を企図する、
元戎と強弩双方の携行などで、野戦での運用を行えないものかと思っていますが、
何分、「肘掛け椅子に座った頭のいい戦略家の創作物」とクレフェルトに揶揄された、
輸送五日制のような、寧ろそれよりも明らかに粗製の創作物に過ぎず、
戦史、特に戦闘史に対するより深い理解は必要だと思います。
基本的には思い付きで書いてますし。

祁山は、晋書宣帝紀の記述からすると、河川の流路を変えて堀としたり、
大規模な工事による強固な陣地に拠っていたように思えるので、
五丈原同様、基本的には自陣地を攻めさせる方式だったんじゃないかと思ってます。
郭淮伝からは、郭淮の働きで事なきを得たものの、
関中から大規模な輸送を必要とする状況だったので、
麦の刈り取りもそれを促すためのものだったんじゃないかと。

166 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 22:42:22
>>165
まず糧秣なんだけど、これも分らん所があって
カイって体積で描かれるのと石って重量で描かれるのとあって混乱すんのよ
元々は水が基準だったと思うんだよね、カイ=石って感じで。けど時代が下る
と比重が水より重くなってる。脱穀とか製粉した穀物の量になってるっぽい

ああ、言い忘れたけど>>152、弩の張力12石って漢代で換算してるけど春秋
戦国時代の数値は秦による度量衡統一前のものの可能性があるから換算の
時に気をつけないと
漢代の学者が既に換算済みなのか換算せず書物にあった数値を記憶したのを
そのまま述べただけかの検討も必要だからすげー混乱するんだよね

祁山は所期駐屯軍を包囲したままで上ケイまで本体が向かってるからきちん
とした野戦陣地を築いて進出していたと思うんだ
あと魏の増援が来てしまったからにはやはり守りを固めるとも思うんだ
この辺は解釈の違いになると思うわけだが五丈原なんかは所期には明らかに
会戦を志向した形になってる
祁山の戦役で生じた運動戦の再来を狙ったもので陳倉方面へ派遣した分権隊
と本体との連携の取れるところで魏の本軍を誘いこんで会戦を期したと
これは司馬懿がその誘いに乗らなかったことで長期戦になるわけだが

諸葛亮に対して俺が抱く歯がゆい思いは会戦を志向しながら誘い受けを狙う
という何や訳の分らんことをしくさる癖に誘い受けが下手でその上臆病な所
まぁ誘い受け狙いは制圧射撃で敵をつぶすのを狙ってる以上仕方ないがね
しかしそれは敵も分ってるから易々と乗るわけは無いんだけど何だろねあれは

167 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/23(水) 22:58:24
>>166
弩の張力の話は、漢書なんで一応漢の度量衡による値を付しただけで、
さすがにそれが実際だったという意味では使ってないですよ。

祁山に関しては、素直に読めば上邽東方での会戦を企図しつつ、
それが失敗した為に引っ込んだという事になるんですが、
自分は「諸葛亮スゲー」というスタンスで考えようと思ったんで、
もともと鹵城での勝利を狙っていたと考えた方がそれっぽいという事でそう解釈しました。

168 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/26(土) 23:47:35
三国鼎立以降の戦争を考える上で、一つの重要な要素になっているのが、
戦争が、漢という国家の下での群雄の勢力争いという状態ではなく、
全土の統一を前提とした王朝間の争いになっているという事だと思う。

群雄の争いの様相であれば、各群雄間の講和などが成り立つので、
戦争を制限戦争の次元で行う事ができるけれど、
王朝として成立した後は、究極的には敵国を完全に、
国家を解体するというレベルまで屈服させなければならないだろう。
ましてや蜀と魏では尚更だろう。

こういう戦争では、戦闘における一度や二度の勝利では平和を築く事ができず、
それによって勝利を築く事のできる決定的な戦闘が起こらなくなる。
そしてそれは、10万以上を動員する事のできる大国間の、長期的な消耗戦となる。

このような状況で、相対的に弱小な国家が戦争に勝利する事ができるのだろうか、
と考えると、どうにも絶望的に思える。
決戦によって勝利を追求する姜維の方針は、他に選択肢があったかどうかはともかく、
時代に合致しているとは言い難いものなのかもしれない。

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