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蜀将討議スレッド18

1 :依頼:2007/12/17(月) 20:36:52
蜀における武将、人材に関して総合的に語り合うスレ
とりあえずただの煽り合いは抜きの方向で。
正史・演義どちらか一方を正統とする発言は極力避ける事。

<前スレ>
蜀将討議スレッド17
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1180446435/
蜀将討議スレッド16
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1164728089/
蜀将討議スレッド14(実質15)
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1159019664/
蜀将討議スレッド14
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1142693255/
蜀将討議スレッド13
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1131372256/
蜀将討議スレッド12
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1115889844/

2 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/17(月) 20:50:40
<過去スレ>
蜀将討議スレッド11
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1110602773/
蜀将討議スレッド10
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108629096/
蜀将討議スレッド9
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1098807561/
蜀将討議スレッド8
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1091196164/
蜀将討議スレッド7
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1090156694/
蜀将討議スレッド6
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1089022105/
蜀将討議スレッド5
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1088188865/
蜀将討議スレッド4
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086984613/
蜀将討議スレッド3
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086376565/
蜀将討議スレッド2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086111941/
蜀でNO.1の名将は誰か?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1085319730/

3 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/18(火) 09:51:27
甘寧が蜀将になっていた可能性ってあんのかな

4 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/18(火) 10:13:46
もともと劉表を見限って呉に行こうとしたけど黄祖が夏口にいたから通過できず、
やむなく滞在してわけだし、心は呉にあったわけだから、
可能性はゼロに近いんじゃないかな。

5 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/18(火) 23:53:38
八戸のぶなが公が蜀の征服に乗り出される。


心せよ。

6 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 01:23:14
喫緊時の誤報通達者は法令により打ち首ぞ!

7 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 12:33:02
>>5

学徒出陣公が迎え撃つ。

8 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 18:20:10
李厳が北伐の時になんで後方の兵糧輸送係にされていたのかわからん
兵糧輸送係は諸葛亮的に他に適任者がいなかったから、やむなく一番政治的な実績のある李厳に任せたのかな?

9 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 18:25:27
兵站管理が漢中からの北上で重要な責務だったから
あまり実戦的な兵権を与えると危険だから

10 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 19:50:40
李厳には独立の意志でもあったの?
諸葛亮を唆すそぶりはあったけど

11 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 20:09:18
李厳は過大評価されてたけど、孔明に見抜かれただけ

12 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 21:21:22
その過大評価をしてたのが諸葛亮なんでないかい。

13 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 21:52:32
地方の一太守に過ぎなかった李厳を尚書令に取り立てたのは劉備。

14 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 22:09:56
少なくとも軍の指揮において李厳が非凡だったのは反乱平定の手腕を見ても間違いない
ただ一方で史書を見ると野心家なのも又事実のようで。まあそういうことだな

15 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 22:24:52
ふーふー

16 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 09:31:03
>>15
熱いの?

17 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 09:52:34
李厳の出世の仕方は物凄いけどよほど名門の生まれなんだろうか

18 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 12:50:35
肛門の生まれ

19 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 17:09:19
>>17
南陽は豪族の多い土地だから彼の家もそれなりに豊かだったのかもしれない

20 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 23:41:55
ハルヒはどう?

21 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/21(金) 15:05:19
>3-4 そのものずばり「蜀の甘寧」という漫画が始まりました
http://comics.yahoo.co.jp/magazine/sangokushi/sixyokun02_0001.html

22 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/21(金) 15:13:02
そういう意味の「蜀」か、こりゃやられたなw

23 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/21(金) 21:52:25
Linuxで見れない・・・

24 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/23(日) 00:11:22
個人的にショクの人材は防衛戦が少なかったから評価が低いんだと思う。
どの国も、荊州奪還以降の勝ち戦は基本的に防衛戦だから、攻める側に回ることが多かったので将軍たちが目立つ活躍が少なかった。


25 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 04:23:08
法正って張粛には報復しなかったのか?

26 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 12:40:58
法性は長縮を愛していたからな

27 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 15:40:53
法正「私は 童貞だ。
知らなかったか 私が愛するのは市民と革命だ。誰かではない。」

孟達「や は り !」

28 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 18:18:16
童貞

包茎

陳固

中国人の名前としては普通にあり得るな

29 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 20:12:45
童貞 包茎 陳固

三義兄弟、桃園の誓い

30 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 22:13:57
陳[示古](ちんこ、?−263年)
陳祗の子。
幼少の頃から武勇に優れ、若くして将軍に取り立てられる。
建興11年、馬忠に従い反乱鎮圧に従軍して功を挙げ、その功により胤猛将軍に任ぜられた。
平定後は南中に留まり行政面において大いに功績を立てた。
やがて父が死に劉禅が黄皓を重用し始めると、姜維と共に黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず罷免され成都に留め置かれた。
263年、魏が攻め入ってくると再び将軍に任ぜられ諸葛瞻らと共に綿竹に立てこもり奮戦した。
諸葛瞻らが討ち死ぬと敗残兵を纏め成都に撤退させようとするが恐慌状態の軍を纏めきることができず乱戦の最中戦死した。

法景(ほうけい、198−222年)
法正の子。
智術に明るかったが規律に疎く、度々軍令を破るようなことがあった。しかし才を見込んだ劉備の取立てにより事なきを得た。
221年、劉備が戦を起こすと馮習の副将として従い李異らを破った。
翌222年、劉備が水軍の後退を命ずると法景は脆弱な兵站線を指摘し、水軍の維持を進言するが聞き入れられなかった。
しかし法景は備えを怠らなかったため水上からの陸遜の奇襲にも動じず鉄壁の守備を見せた。
だが、やがて味方軍営の陥落により兵が四散し始め、敗北を悟った法景は自害した。
白帝で法景の死を知らされた劉備は「朕が(諌言に注意を)むけていれば」ともらしたと言う。

31 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 22:38:13
つまらん。

32 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 22:54:49
がんばったのに(´・ω・`)

33 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 23:54:34
>>28-29
童貞、包茎はどちらかと言うと女の名前だな。

貞淑とか、草冠の字は、女の名前に使うことが多い。

34 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 13:19:51
童貞ちゃん・・・

35 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 13:44:21
法正が謀殺した人物って具体的に誰かとか分かりますか?

36 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 14:16:35
八戸のぶながだよ。

37 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 14:19:27
>>35
全玄、毛雄、楊憲、紀嬰、文亭、劉玉、張寛

38 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 14:21:42
三戦板住民な蜀将

39 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 14:26:51
しかし法正も国内の馬鹿ドモを粛清してる暇があったら、
同数の敵国名士を殺してくれればよかったのに。

40 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 17:18:22
すれ違いなのはわかっている
三国知識は漫画とゲームだけなのもわかっている
ぶっちゃけ2chは素人といってもいいぐらいのレベルだ
それをふんできいてくれ
 過去すれってどうやってみんの?

41 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 17:28:08
>>40
KIAI

42 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 17:58:49
>>40
なんか好感持てた

43 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 18:00:42
>>40
マジレスすると金払わないと見れない

44 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 21:03:29
>>40
http://www.geocities.jp/mirrorhenkan/

45 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 22:27:10
切腹汁

46 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 22:48:30
40です
すごい!!当初の予想はすれ違いだバ〜カ自分で調べろとかスる〜
などと予想していました。5件の返信様感激です。
書き込んでからずっとつけッパで陸遜のシナリオをクリアしてレアアイテム
2つとって待った甲斐がありました
このスレの過去すれがみたかったんです。
おやおや、少々長く書き込んで島しました。
ありがとうございました!!

47 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 23:58:50
高橋大輔すごいな



48 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/28(金) 06:34:33
蜀は社会民主党

49 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/28(金) 09:53:08
みずぽたん。。。

50 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/28(金) 18:46:14
電波国家かよW

51 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/29(土) 01:54:37
張巍や陳式は演義ではどういう扱いなの?

52 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/29(土) 02:15:45
    /    ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
    |:|: ..   :||    .. |:|  │
    :|: ..   ||    ..|| <   ジュワ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
::     |\|_|_|_|_/:::|    \________
   __| |   / / :|___


53 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/30(日) 09:58:41
>>52
正義の蜀に天下を取らせてください

54 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/30(日) 23:44:16
スイーツな蜀将

55 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/31(月) 01:26:28
   *``・*。.    。.:☆   .     *。+゚ ★
   |   `*。 ;*  †▲_*;.。.: ∧  ∧  /*。
  ,。∩    *. ゚*: (('A`);゚' +< ,,‘∀‘> つ  *。+゚
 + (・ω・`)*。   ゚・* (  7  `*。 二つ *゚*
 `*。 ヽ つ*゜* .  < ヽ   \+。*・'
  `・+。*・`゜⊃ +゜   *。+゚    ∪`J
  ☆  ∪~。**'``・* 。
  `・+。*・゜.  |     `*。
      ,。 _,,∩,_     * もうどうにでもな〜れ〜☆
     + / ,' 3 `ヽ* 。+゚
     `*⊂    ,j *゚ *
       ゚と・+。*・' ゚ +゚
       ☆ `(ノ′ 。*

56 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/31(月) 09:14:26
>54
蜀にあたる四川省の人々は、
凄く辛党だと言いますが

57 :無名武将@お腹せっぷく:2007/12/31(月) 10:49:34
むむむ

58 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/01(火) 17:58:44
>>37 そういうのって、どこに載っているんでしょうか?
蜀志?

59 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/01(火) 21:25:45
>>58
華陽国志

60 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/01(火) 22:22:53
>>59
そういう遊びは有害なだけで面白くない。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:04:56
かたらろう

62 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:18:19
夷陵の戦いで戦死した都督2人って誰ですか?

63 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:24:55
>>62
馮習と張南でないかい?

64 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:59:44
>>54
スイーツ(笑)

65 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 14:01:37
ケータイ小説を書いていそうな蜀将は誰だ?

66 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 14:04:16
>>65
馬超

67 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 14:38:47
>>63
ありがとうございます

68 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 23:16:39
>>65
ハイブリッド龐統

69 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/03(木) 15:58:23
サテライトキャノン法正

70 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/03(木) 16:43:46
職場の中国人に三国志について語ろうと思ったが、俺より知らなかった件。

法正とか知らないんだぜ?

中国では三国志ってあんまり教わらないのかなぁ


71 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/03(木) 16:45:46
>>70
歴史の一部だからな〜〜
日本くらいだろ
三国志は

72 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/03(木) 18:48:42
中国人だからってみんなが知ってるとは限らないよ。
日本人だって赤橋守時とか熊谷直実とか言われたら大抵はきょとんとするだろ?

73 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/04(金) 00:10:23
中国では、

紅楼夢ヲタ、金庸の武侠小説ヲタ >> (超えられない壁) >> 三国志ヲタ、水滸伝ヲタ

紅迷と金迷は狂気に包まれている。
 

74 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/04(金) 09:36:55
陳?とか、法景とかいたのね
知らなかったw
ところで最近、董卓が童貞に見えてしまう件

75 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/04(金) 12:10:59
むふふん

76 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/04(金) 19:37:52
>>74
お前のせいで童貞に見えるようになったじゃねーか

77 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/05(土) 00:56:22
>>76
サーセンwww

78 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/05(土) 11:35:20
新春童貞スペシャル

79 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/05(土) 12:19:34
寿春董卓スペシャル

80 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/07(月) 14:24:37
>>59-60 つまりは嘘?

81 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/07(月) 21:45:18
>>80
そうだよ。ここに華陽国志あるから検索してみ。
ttp://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/index.htm

82 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/08(火) 02:18:24
素人童貞が集まるスレはここですか?

83 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/08(火) 05:42:05
違う、真正童貞だ

84 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/09(水) 11:02:09
>>82
ざけんな玄人とも経験ねーよ!

85 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/10(木) 20:20:30
>>21-23 その漫画は法正や張松も出て来たね。

86 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/11(金) 05:20:21
神将魏延

87 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/11(金) 13:35:37
お前らのおかずって何?

88 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/11(金) 14:15:51
魏延

89 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/12(土) 01:03:45
焼売

90 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/12(土) 04:59:54
餃子

91 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/12(土) 12:13:45
蜀的には饅頭じゃないのか?

92 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/12(土) 15:32:41
>>87
沢尻エリカ様

93 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/13(日) 09:52:45
蜀的には四川風麻婆豆腐だろ、常考

94 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/13(日) 09:57:36
綾波レイ

95 :陳登:2008/01/13(日) 11:40:38
>>94
エヴァ板に帰れ

96 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/22(火) 01:30:11
魏延って本当は義陽出身じゃなくて南陽出身なんだよね。黄忠と同郷じゃん。

97 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/24(木) 04:54:42
でも魏延と黄忠の逸話って殆ど無いよね?

98 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/24(木) 04:59:47
おれがその時代にいたら・・すぐ死ぬな・・・

99 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/24(木) 15:31:04
>>87
八戸のぶなが

100 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/29(火) 00:06:49
魏延は三戦板で過大評価され過ぎ

101 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/29(火) 00:22:40
貧しい所からのし上がった人に評価された
貧しい所からのし上がった人には
夢があるんジャマイカ

102 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/29(火) 18:54:41
>100 むしろおかげで魏の北伐への対抗者が過大評価される傾向にあるな

103 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 01:33:44
色々三国志の本読んでみたけど、全部大体孔明が死ぬまでなのな。

孔明死んでから、蜀滅亡までを描いたオヌヌメの本とかない??
キョウイとかリクコウとかかっこいいー

104 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 07:47:01
三国志ものの原作の演義読んでないの?晋の統一まで書いてるよ。
あと柴田錬三郎の『英雄生きるべきか死すべきか』が『英雄ここにあり』の続編で
姜維が主役。俺は読んでないけど。


105 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 09:51:09
>>104
柴錬のは活劇としてなら良いかもしれないけど、
かなり創作が入ってるから好みはわかれると思う。

106 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 11:44:27
>>103
ちくまの正史訳


107 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 23:05:59
>>103
陸抗の活躍は蜀滅亡後だぞ

108 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 23:11:04
二宮事件を面白く書いてくれる人がいないかねえ
太子派と魯王派の陰湿な足の引っ張り合い!
孫魯班の跳梁跋扈!
拷問されながら嘘をつく陸胤!
巻き添え食って散々言われて自殺する陸遜!
面白い政治ドラマになるよ

109 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 00:15:36
>>108
暗い話になりそうだな。

110 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 07:58:36
>>108
どう面白く書いても読者が限定されそうな話題だなw

111 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 13:13:15
二宮(金次郎)事件を面白く書いてくれる人がいないかねえ
金次郎と校長の陰湿な足の引っ張り合い!
人体模型の跳梁跋扈!
拷問されながら嘘をつく薔薇乙女!
巻き添え食って散々言われて自殺する笠地蔵!
面白い人形劇になるよ


112 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 14:23:15
面白そうだな

113 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 14:27:20
>90は大丈夫かな・・・

114 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 15:18:45
>>108
昼メロっぽいねw

115 :きどたかよし ◆maqTxNBiUg :2008/01/31(木) 18:18:31
>>108
大変魅力的

116 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 20:41:08
>>108
ドラマ化決定

117 :無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 23:29:25
そして宇宙へ

118 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 01:13:15
ヒイとかショウエンって軍師としての才能はどうだったんだろう??

文官としての能力と戦略を考える能力が全く別なのは当然だけど、ジュンイク・ジュンユウはどっちも揃えてそう。
後蜀では、戦略的に全体を見える人はいなかったのかな。
キョウイは戦術に固着しすぎに思うし。

119 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 01:20:53
ジュンイク・ジュンユウ
クラスの文官なんてそうはいないだろう。


120 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 01:38:26
蜀じゃ孔明だけだろうな

121 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 02:39:24
蜀は学者肌の人は多いのにね

122 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 02:58:41
ショウエンって普通に魏だか呉だかの討伐計画練ってたでしょ
内部に反対の意見が多く実行されないまま病死したが
ヒイも魏が攻めてきたとき平然と碁だかしながら援軍を送り撃退した

123 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 11:01:16
積極的な北伐を行わなかった(行えなかった)間は、国力の衰退が目立たなかった。
いざ積極的に撃って出てみたら、やはり彼我の国力差がありすぎてジリ貧に陥った。
すると今まで表に出てこなかった不満が一気に噴出しだして、
戦争を知らない世代が増えたこともあり厭戦感が蔓延して下り坂をローリングストーン…。

てな感じ?

124 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 12:54:45
ショウエンはアル中
費イはギャンブル狂

125 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 17:00:06
キョウイは北伐厨

126 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/02(土) 02:44:16
魏延は最強厨

127 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 02:09:07
魏延が見直されれば見直されるほど楊儀の評価が落ちるな
何か功績あったっけ

128 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 03:30:03
>>127
コツコツと手紙を書く事が出来る根気と執念は尊敬に値する
功績に関しては一番大きなもので諸葛亮の死後全軍を無事に退却させたというのがある

129 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 04:25:34
>>127
陣立と物資分配(計算)にかけては天才的だったらしい。

130 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 09:21:43
マネージャーとしては超優秀。
リーダーとしては二流。
それが楊儀。

131 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 13:20:30
中間管理職としては優秀って評価だよな>楊儀
古今問わず、「出世したことが身の破滅につながった」というタイプは後を絶たんねぇ。

せめて蒋エンが楊儀より年上だったら、もう少しマシな晩節を送れたのかも。
……楊儀の暴走が後送りになるだけか。

132 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 14:30:21
どうあっても結局は費イに嵌められるだけだな。
費イだけが魏延と楊儀の間を取り持てたのに、本人からその気が失せてるから如何ともしがたい。
まぁ、諸葛亮という重石が抜けた後での両巨頭の決戦には巻き込まれたくないよな。

133 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/05(火) 00:40:51
蜀末期について凄く疎いので、申し訳ないが知りたいんだけど
260年から261年にかけて建国時の主だった武将達に諡号を送ったのはどうしてなんだろか


134 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/05(火) 01:05:24
>>133
段谷の大敗で滅亡にもいよいよ王手がかかったんで、
そこらへん誤魔化すために英霊祭って士気高揚はかったんじゃないかね。

135 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/02/05(火) 01:11:22
>>133
理由が史書に書かれているわけではないので、推測でしか言えないのだけれど、
まず以って挙げられるのが、陳祗の死以降急速に朝廷内に広がっていった厭戦気分を打ち消すためという事。
武を以って建国を大いに助けた人物を称揚する事で、
北伐の意義を再確認させる必要があったんではなかろうか。

とするならば、姜維が主導した事である可能性が高いと思う。
関羽らの翌年に行われた趙雲への諡号追贈は、趙雲別伝に拠れば姜維が深く関わってるしね。

136 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/05(火) 01:14:45
魏が青龍元年と正始四年に功臣を太祖廟に合祀したのと同じ理由なんじゃないかな。

137 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/05(火) 23:24:55
姜維にとって、唯一生でお目にかかった五虎将だからな>趙雲
趙雲に対する世の中の評価はともかく、思い入れも違っただろう。

138 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/06(水) 00:10:15
今でもあるな
有名人が「生前の○○にお会いしました」といって
イデオロギー操作するっていうの

139 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/14(木) 18:46:57
>>137
分からんぞ、案外馬超に会ったことあったかも

140 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 00:47:33
五虎将なんてもんには、姜維以外の蜀の人間も
見たことも聞いたこともないだろ。

141 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 01:17:08
むしろ姜維への当時においての世評が気になる

142 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 01:29:54
>>141
兵士「生姜うぜぇ」
下級官吏「生姜うぜぇ」
金持ち「生姜うぜぇ」
貧民「生姜うめぇwww」

143 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 02:10:22
付き従っていた将兵の間では最後まで士気旺盛だったようだが

144 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 14:11:52
じじいには評判悪くて若者に人気があったのかな?
でもじじいでも東芝さんとかには好かれてたんだよな

145 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 14:23:42
>>142
日本語を勉強しなおしてからまたどうぞ

146 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 21:51:56
>>145
明らかなネタレスに日本語もくそも無さそうな気がする
つーか短すぎて日本語もクソもない

147 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/17(日) 14:02:33
145が思ってる正しい日本語ってのが分かんない。添削するとしたらどうなんの?w

148 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/17(日) 22:54:58
「生姜がうざったい」とかw

149 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/19(火) 19:09:55
「生姜がおいしゅうございます」じゃないかな。

150 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/20(水) 02:54:23
そういや、関羽と馬超って会った事あったっけ?

151 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/21(木) 14:05:51
無いだろ、関羽は蜀入りしてないし
ただ、馬超の勇名を気にした関羽が孔明に
「馬超はどれほどの武将なのだろうか」と手紙を出したはず

152 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/21(木) 19:47:46
関羽って成都入ったことないの?

153 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/21(木) 19:53:57
>>152
おそらくは。
ただ馬超は劉備に臣従した時に臨沮を任されてるんだよね。
これって襄陽の臨沮?それともどっか別の臨沮?陽平関近くの沮県周辺?

154 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 00:20:30
蜀とった時点で呉は「新しい領地手に入れたんだから荊州返せや」って
行ってくるのは目に見えてたからな
そんな状態で荊州の最高指揮官が現場を離れるとは思えん

155 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 00:33:47
荊州の最高指揮官だったっけ?

156 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 01:32:51
荊州で守ってるとき関羽陣営に居たのって
関羽関平王甫趙累廖化周倉だっけ?
ホウトウでも生きてて一緒に守ってたら話は変わってたかもなぁ

157 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 01:41:43
ホウ統が生きてたら劉備と一緒に漢中に行ってるんじゃないの?

158 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 01:53:23
周倉って…

159 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 02:16:42
周倉は一応()つけようと思ったけどめんどいからそのまま
ホウトウが漢中行ってたらそれはそれで諸葛が荊州に残ったかもしれないっていうのもある

160 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 08:01:37
>>156
潘濬、郝普、郭陸、・晏、陳鳳、ケ凱、ケ輔、樊友、文布

219年の呉の荊州侵攻時に荊州にいた面々。劉備に通じていた豪族含む。

161 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 08:02:07
あ、麋芳、(傅)士仁もね。

162 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 14:22:04
>>160
行政スタッフの潘濬を含むなら、別駕従事の殷観は?

163 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 14:51:41
>>162
季漢輔臣賛で一緒に名前を上げられてる不明の衛文経、韓士元と当の殷観以外の馬良、張存、習禎は益州入りしてるんだよね。
断定は当然できるものではないが、殷観も益州入りしてるんじゃないかなあ?推測(妄想?)の部分が大きいかな?w

164 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 21:14:07
その中で戦略練ってたのって結局誰?
関羽の勝手な暴走なの?

165 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 21:21:48
諸葛亮じゃね?

166 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/22(金) 23:20:12
関羽の暴走は無い
死後別に蜀内で評価下がってない

167 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/23(土) 01:02:10
>164 都督とか主簿じゃねえの

168 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/23(土) 01:08:30
潘濬をどうしてもっと上手く使えなかったかな?
はっきりモノを言うタイプだから関羽とは合わないのはわかるが・・。

169 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/23(土) 02:32:09
>160 所で、ケ凱、ケ輔らは
ケ芝やケ艾とは何か血縁関係とかある?
後者二人は出身地が近かったよね

170 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/24(日) 09:17:09
エネルギーとエレクトロニクスのケ芝がお送りします

171 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/25(月) 01:34:33
いケ芝マース!

172 :無名武将@お腹せっぷく:2008/02/26(火) 00:48:14
DVD競争で負けた人か。

173 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/03(月) 09:42:57
呂布(蜀)も忘れないでください

174 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 11:28:48
周倉ってのはひょっとしてモデルになった人物がいるような希ガス

175 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 12:07:06
日本語でおk

176 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 16:13:37
現在の成都

【中国】「お帰りなさい、ご主人様」!中国の若者に浸透する「萌え」文化、「メイド喫茶」潜入記―四川省成都市 [03/19]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1205897755/

177 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 16:16:14
俺は
関羽「お帰りなさいませ!兄者!」
張飛「兄者!今日は元気そうだな!」っていわれる」
三国志喫茶のほうがいいや

178 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 20:39:02
>176-177
北方三国志の趙雲の最期の言葉が頭に思い浮かんだ

179 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/22(土) 13:19:39
関羽からの呼ばれ方は兄者じゃなくて兄上の方が萌えるな

180 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 19:37:30
魏延と王平って役割は似ていたんでしょうか。
役職も似ていますし
でも王平は節は仮されていないのは、単純に
権限が小さかっただけという事ですかね。
魏延は軍師の役職にも付いていますから

181 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 20:03:01
>>180
王平の役割は、劉備時代の魏延の役割と似ているのではなかろうか。
単なる漢中防衛軍司令官。

魏延が節を与えられたり、軍師の役職に就いたりしているのは、
諸葛亮時代になって北伐の中心戦力となり、
漢中防衛の任から外れたからだと思われる。

182 :無名武将@お腹せっぷく:2008/03/30(日) 13:38:38
南鄭侯だしね
侯爵さまだぞ偉いんだぞ

183 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 23:18:17
ご主人様

184 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 09:08:15
魏延が殺されなかったら蜀はどうなってたんだろう?

185 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 10:28:18
>>184
もうあの時点で魏延が生きていてもごっそり兵を持っていかれて
滅亡が早まるだけだったんじゃね?


186 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 23:12:14
キョウイは名将なのか?

187 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 23:24:47
>>186
それなりに名将ではあると思う。
北伐では郭淮・陳泰・ケ艾と相手が名将揃いながらも、
そこそこの戦果は挙げてるし、、
魏が侵攻してきた時も、
素早く軍を動かして剣閣に立てこもり、
鐘会の軍十万を釘付けにしている。
ケ艾の山越えがなかったら、
タイムオーバーで遠征軍を撤退に追い込んでいた公算が強い。

188 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/06(日) 12:03:31
>そこそこの戦果

戦果を挙げたのは郭淮・陳泰・ケ艾以外の相手と戦った時でしょ

189 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 02:38:02
鍾会と王経に郭淮の部下か

190 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 10:48:35
戦力の差を考えるとよくやったと言えると思う。
KYな感じだけど…

191 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 16:26:55
張翼が出世できたのって名家だからか?

192 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 16:57:54
灰焼死さんも生姜気に入ってたみたいだしね
わざわざ孫盛の批判的な長文を引用した後それを批判するツンデレっぷり

193 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 18:44:23
しかしその一方で「姜維ごときは天水の一男児に過ぎん
彼を失ったところで魏に損害はほとんどない」と酷評していたりもする
まあ孔明も酷評されたこともあるくらいだから好き嫌いにはあんま関係無いかもしれんけど

194 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 23:23:01
実際、大勢を揺るがすような
大きな損害は無かったからなぁ。

195 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/09(水) 02:00:52
そもそも裴松之は、孫盛の行き過ぎた批判を批判しているだけで、
「姜維は凄い人物だ」みたいな事は言ってないしね。
姜維を擁護しているし、気には入ってただろうけど、
「姜維は大勢を覆す事のできる程の人間だ」などと嘘をつく必要は無かったろうね。

196 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/09(水) 12:07:51
王経に勝って数万人の首取ったのに致命的な損害じゃなかったのか…

197 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/09(水) 19:51:31
自軍の100倍の打撃を与え続けてやっとこさ何とかなるレベルだからな。

198 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/09(水) 22:37:52
>>196
あれはあれで相当なものだけど、流石に致命的と呼べるほどじゃない。
まぁ、あれが短期間にもう一回起これば、隴西ぐらいは一時的に領有できたと思うけど。

>>197
100倍は言いすぎじゃないか?
5,6倍の戦闘効率で戦い続けられれば、或いは何とかなったかもしれない。

199 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 00:06:27
実際蜀と魏は2、3倍ぐらいの戦闘効率とも言われてるが。

蜀は兵器開発重視の重装歩兵で、魏は数の力。

200 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 00:08:16
魏は武器が粗末だったり、実は兵士の強さはそれほどではない

201 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 00:24:24
馬が多いのはどちらだ?
蜀って輸送用の牛には困窮してたんだよな

202 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/10(木) 00:49:32
何か面白い記述は無いかと思って、太平御覧を流し読みしてたら、
巻三四六 兵部七七 刀下に、陶弘景の刀剣録の記述として、
「又曰蜀主劉備令蒲元造刀五千口皆連環及刃口刻七十二錬柄中通之兼有二字」
とあった。
蒲元って劉備の頃から刀作ってたのか?

203 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/10(木) 01:38:41
>>201
400〜500kgの馬なら、日に10kgくらいの飼葉を食うからねぇ。
それを大量に運用するとなると、輸送がしやすい土地か、
或いは馬の餌となるような植物が多い土地を通るかしかない。

また運用の面で考えると、斥侯や追撃に、或いは、
戦術的には包囲機動などに使うのが一般的。
この時代は鐙が無いので、騎兵による衝撃行動は期待できない。
だから、戦術的には敵騎兵を駆逐し、密集する歩兵の側面に切り込む形で使うと思うのだけど、
正面の広く取れない地形なら、断絶地に歩兵の翼を依託する事で、
騎兵による側背への攻撃を防ぐ事ができる。

少なくとも、蜀が雍州において大量の騎兵を運用するメリットは小さい。
だから、中原でも同様に軍隊を運用していたであろう魏の方が、
馬は多かったと思うよ。

204 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 03:50:30
>>198
彼我の最大動員兵力が10倍だったら、100倍の打撃を与え続けないと勝てんですよ。


205 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 04:07:31
与え続けるんじゃなくて、100倍の戦果が必要だ、だな。

206 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 06:20:52
そりゃ魏兵全て殺しつくさないと勝利じゃないんならそうなるだろうな

207 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 10:03:05
いや、単純に倍する国の兵の回復量は倍なわけでさ…
戦場でA国が5000人、B国が10000万人で戦った時、A=500とB=1000づつ損耗してっても、
後方の余剰戦力で、戦場での打撃以上の兵力が回復してたら結局勝てない。
結局、内乱に乗じる事でしか勝てないんじゃねーの。

208 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 10:15:13
んが。A国が5000人、B国が10000人ね。

なんで1000万なんじゃ。

209 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 16:14:14
蒲元の話はどこまで本当か微妙だな

210 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/10(木) 19:23:21
>>207
過大に見積もりすぎているように思える。

国力差は現有戦力の差だけでなく、戦力の回復量にも影響してくるけど、
大国とは言え、それをすぐさま回復できるわけではない。
人を軍隊に入れるだけで、兵士として使い物になるわけじゃないからね。
当然、相当期間の訓練を施さなきゃならないから、
敵が戦力を喪失してから、それを回復しきる前に更なる打撃を加えられれば、
崩壊にもってく事はできるだろう。

戦力を養成するのは国土だけど、敵の戦力に大打撃を与えれば、
その国土をも自らの手に帰する事はできるだろうしね。

「100倍の打撃を与えなきゃならない」というのは、
敵が、どれだけ打撃を受けても国土を全く失わず、
戦意を保ったまま戦力を即座に回復できる、というおかしな状況を考えなきゃならないと思う。
そもそも、魏とて、国力の全てを蜀に傾ける事ができるわけではないし。

>>209
蒲元は何者なのかよく分からんね。
いつ頃から仕えてたのかも分からんし、西曹掾だから官吏の選抜を担当するはずなのに、
何故か刀なんか作ってるし。

211 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 23:50:20
>>210
253年、姜維が王経の涼州軍を壊滅させてるが、
256年、段谷において大敗し、王経が受けた打撃とは1桁違うにも関わらず再編不能となり、
263年、段谷敗北後に防衛力を削いだ事が仇となって蜀滅亡。

となってるのを見るとね。
蜀が受けた打撃に数倍する打撃を受けながら魏は数年後には侵攻軍を起こしているのを見ると、
蜀が勝つなんてのは端から夢物語だったんじゃねぇかと思う訳ですよ。

212 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 00:22:23
>>211
王経軍を殲滅したと言っても、雍州駐屯軍の一部である隴西駐屯軍のみであるし、
隴西のみで5万も6万もいたわけじゃないから、敗走後の王経が1万を保持していた事を考慮すれば
死者、負傷者等を合わせても、2万くらいだとおもうよ。
魏の人口は、後漢書(続漢書)郡国志の注に引く帝王世記によれば、
蜀の4倍から5倍ほどだから、恐らく全兵力の4〜5%ほどの損失。

段谷では死者の桁は違うけど、2,3千なのか、5,6千なのかは分からない。
「斬ったり生け捕ったりした数は、ややもすれば万に届くほどである」
という記述であるから、損失全体で言えば全兵力の10%近くになる。

両戦闘における単純な兵力損失比でも、洮西と段谷では2:1か、高くても3:1程度。
魏蜀の差は大きく、蜀が魏を打ち倒す可能性は絶望的なまでに低いけど、
100倍必要だってのはやっぱり言いすぎかなと思う。
まぁ、絶望的な状況を強調する為、大げさに言っただけなのかもしれないけど。

213 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 00:25:07
>>211
ふっ…単純な計算ミスだよ。

214 :213:2008/04/11(金) 00:25:43
>>211じゃなくて>>212に対するレスね…。

215 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 00:35:12
計算ミス?

216 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 00:39:58
採るべき係数と計算する方程式と計算の結果とを間違えた。

217 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 00:42:44
なんだかよく分からんけど、あなた自身が納得してるならそれで良いのかな。

218 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 00:45:05
戦力二乗の法則使ってたつもりだったんだが…。
 算 数 苦 手 で納得&溜飲下げてくだせぇ。
説明したかったのは、そちらも述べているように

> 魏蜀の差は大きく、蜀が魏を打ち倒す可能性は絶望的なまでに低いけど、

という事だったんで。

219 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 00:49:32
ランチェスターの二次法則の使い方を間違ったって事か。

まぁ、「なんで100倍なんだ?」と疑問に思っただけで、
もともと下げるような溜飲も無かったけどね。

220 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 02:34:37
>>196
あの国の数字は鵜呑みにできない。

221 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 09:04:23
自国の敗戦を誇大に書く人って居るんかのぅ…

222 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 11:14:18
黄皓

223 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 17:24:50
劉備が騎兵隊による傭兵を率いていたとかどこかで聞いて
以来、劉備は有力な軍指揮官だったのだと認識しているのですが
それを正しいとすると劉備は戦術や騎兵の用兵術をどこで学んだのでしょう?
劉備の伝に「馬術や騎射を好んだ」とか書いてあるのでしょうか?

224 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 20:20:08
蜀書先主伝
「先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服」
どうやら、若い頃は馬が好きだったらしい。
馬術もこの頃に覚えたんじゃなかろうか。

ただ、劉備は騎馬民族と接する機会の多い幽州の生まれなので、
基本的教養として幼少の頃から
馬術を嗜んでいたのかも知れない。

225 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 21:52:34
>>223
騎乗の技術に関する記述としては、>>224が挙げてくれたのがあるけど、
騎兵の扱い方に関する記述は無いね。
ただ、劉備は徐州の陶謙を救いに行く際、私兵以外に烏丸の騎兵を率いてもいたから、
この時点で騎兵を使う術はある程度体得していたのかもしれない。
彼が誰かに用兵を学んだとすれば、可能性としては廬植辺りが高いんじゃないかと思うけど。
まぁ、>>224も言うように、劉備は幽州出身だから、烏丸の騎兵の話もあるし、
もともと北方異民族の騎兵と、その戦術について親しんでいたかもしれないけどね。

しかし、劉備が騎兵を中心とした部隊を以って傭兵をしていたとするような記述自体、俺は知らないな。
勢力を失う事の多かった劉備が、金のかかる騎兵をいつも多数擁していたとは思えないし。

226 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 22:33:49
>>225
劉備に騎将の能力があったことは、「烏丸雑胡騎」を率いていたということや、騎将文醜と共に騎兵5000を率いたというあたりから察することができるね。
また、長坂で曹操の虎豹騎に追われながら見事に逃げ切ったあたり、本人たちにもそれなり以上に馬に親しんでいたという見方が出来るかもしれない。
俺は、騎将として優秀であったことや一定数の騎兵を擁していたことが、劉備が各勢力で優遇された最大の理由じゃないかと思うんだ。

227 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 23:03:55
>>226
そういや、文醜と一緒に騎兵を率いて曹操と当った事があったね。

劉備は身一つで逃げる事もあったし、常時騎兵を一定数有していたというのは、
少し可能性が低いように思える。
汝南の劉辟に呼応する為豫州へ向かった時は、曹仁が、
劉備の率いていたのが袁紹の兵だった事を述べているしね。

騎兵の扱いに長けているというのは、実際、相当重要な事だとは思う。
騎兵で敵を破るには、その隊列の乱れに乗じる必要がある為、
敵の隊列の綻びを見出す能力、更には敵を撹乱してそれを作り出す能力も必要。
歩兵と連携せず、騎兵のみで敵と当るような場合には特にね。
たとえ自前の騎兵を持ってなくても、騎兵の扱いに長けているというだけで、
重宝される理由はあると思うよ。

228 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/11(金) 23:22:01
劉備がどのように騎兵を扱ったかという事については、
同じ幽州の出身で、劉備とも親しかった公孫瓚が参考になるかもしれない。

公孫瓚は界橋の戦いにおいて、3万の歩兵陣の両翼に騎兵を5千ずつ配置している。
恐らくこれが、歩騎混合の軍を率いて会戦を行う時のスタンダードな配置だとは思う。
ただ、この時の騎兵の配置に注目すると、少し見えてくる事がある。

両翼に分かれていた騎兵は、画一的に同種の騎兵が配置されていたわけではなく、
中央に白馬義従が、そして両翼には弓を装備した軽騎兵が配置されており、
この騎兵部隊両翼の軽騎兵は、左翼は右方を、右翼は左方を射撃する事になっていた。
ここから分かる事は、両翼の軽騎兵の射撃によって乱れた敵隊列に、
精鋭である白馬義従が切り込むというものが、公孫瓚の騎兵の使い方だったんじゃないかという事。
白馬義従は騎射の技術を持った騎兵のみで編制されているけれど、
騎兵部隊の中央に配置して、両翼が射撃をするという記述に拠れば、
白馬義従は弓と刀槍の両方を装備し、敵隊列突入までは射撃しつつも、
最後の段になると白兵戦を行ったんじゃないかと思う。

229 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 02:01:34
劉備が逃してしまった俊才の代表例として、よく惜しまれるのが陳羣だけど、
実際、陳羣を部下にしておく事はできたんだろうか?

留まって豫州にいたとして、それを保持できなければ、結局陳羣は部下として留まらないだろう。
劉備が徐州を受けなかった場合、やはり袁術が北上して支配することになるんだろうか?
或いは、曹操に敗れた呂布が掠め取るのだろうか?

いずれにしても、劉備の状況は厳しいように思える。

230 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 02:04:26
故郷を離れ、官職から財産から投げ打ってでも劉備についていった人間の方が普通じゃあないんだよ

231 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 02:12:42
>>230
そりゃ当然だわな。
自分の地盤を捨てて、着いていくわけない。
ましてや、豫州穎川に深く根を張り、声望のある陳氏なら尚の事だね。

だからまぁ、残念ではあるけど、陳羣を失ったのは起こるべくして起こったのかなと。

ただやはり惜しい逸材だから、ある程度の可能性くらいはあったのだろうか、
とも考えてしまうのだよ。
そうすると、豫州の維持ができるかどうかにかかってるんだけど、
材料が少なくて確たる結論は出ないとは言え、
ちらと考えた限りは難しいだろうな、って事ね。

232 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 07:47:17
でも仮に身一つで劉備に付き従ったとして何か変わる事ってあるのかな

233 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 08:01:09
そら土地も資産も持って歩けないしな。大変な決断だろう。

麋竺は実際についていったわけだが、土地なんかはどうしたんだろうね。
いくら曹操にも信頼されてたといっても、敵同士になったわけだし、本貫が
そのままだったかどうか。
いずれにしても、相当苦労したから孔明より上の位に任じられたんだろうけど。

234 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 08:08:02
田豫なんかは孝を理由に去ったけど、本心は奈辺にあったんだろう
何か劉備に含むところがあったのかもと勘繰ってしまう

235 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 09:05:05
うん。その辺りも、劉備の実像がかいまみえる話かも。
武人はともかく、インテリはあんまり吸引力ないのかもね。

236 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 10:19:18
地盤が安定してからはエリートも加わってるからやっぱり金じゃね?

237 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 11:02:23
かもな。
ただの軍人崩れのごろつきについていくには田豫も陳羣毛並みが良すぎ
たんだよ。麋竺は「除州牧・劉備」に賭けた行きがかり上しょうがなかった。

238 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 13:08:05
田豫って毛並みいいのか?

同じ幽州の、右北平の田疇は多くの人に評価され、
渡邉義浩氏流に言えば名士となっていたけど、田豫の方はよく分からん。
後に曹操が田疇を招いた時、その使者となったのが田豫だから、
なにかしら関係はあったのかもしれないけどね。

そういや、陳羣が劉備のところに行ったって事は、誰からも辟召されて無かったって事だな。
既に荀ケが曹操のところにいたから、劉備の辟召より先に荀ケが推挙しててもよさそうなのに。
それに、豫州刺史と言っても、劉備の支配領域は沛の周辺のみだろう。
陳羣の地盤である穎川からは遠い。
李傕の劫掠があった時に避難はしてたんだろうけど、
沛まですぐに行けるような場所にいたんだろうか?

239 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 13:21:19
陳羣を茂才に挙げたのは劉備だということはあまり言われないなあ
ある意味、彼を中央(曹操)に紹介したのは劉備な訳で、陳羣を逃がしたとか陳羣が愛想つかしたとかいう解釈自体が的外れなんじゃないかと

240 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 13:45:16
俺は愛想尽かしたなんて思ってないけど、「逃した」という表現は語弊を招いたかね。

陳寔も陳紀も穎川きっての名士だから、劉備の茂才の有無に関わらず、
豫州では相当名の知れた存在だったと思うけどね。孔融との逸話もあるし。
荀ケを抱える曹操なら、陳羣の評判は既に知っていた可能性は高いし、
そうでなくても荀ケが知らないはずはないし。

多分、陳羣が茂才に挙げられたのは、劉備が呂布に敗れ、沛に戻ってきた時だろうね。
その後、陳紀について徐州に行ったって事は、劉備が再び呂布に敗れる事を予見したって事だろうか?

そういや、郭貢って劉備が刺史になった頃はどうしてたんだろ?死んでたのかね。

241 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 13:58:16
>>240
238は一般論で、あんた一人に向けたわけじゃなかった
誤解させてすまんね

荀ケだって曹操だって知ってはいただろうけど、結局曹操に付くような場所にいなかったんだろう、呂布が敗れて曹操の軍門に下るまでは

袁カン伝注からは、陳羣たちは「とりあえず近場で勢いのある勢力についておこう。負けても勝った側が俺たちを手荒に扱うわけが無い」みたいな計算で動いているように思えないことも無い

242 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 14:16:37
>>241
そうだったか。勘違いすまない。

袁渙の話に関して言えば、名士ってのはそういうもんらしいからね。
個人的な結び付きではなく、地元での名声を拠りどころとしつつ、
自分の政策を実現できるような人に仕えるって感じで。

ただ、袁渙は淮水流域に、陳羣は徐州に逃げているし、
自身の影響力の及ぶ範囲であれば、必ずしも地盤の郡に留まるわけじゃなさそうだけど。
曹操が陳羣を呼べなかったのは、兗州の動乱の痛手から回復しきってない上、
陳羣が既に豫州東部に避難していたからなのかもね。

243 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 21:16:30
そう言えば、劉備は高唐の令になった後、賊軍に敗れて公孫瓚のもとに走ってるけど、
この賊軍というのは、本当にただの賊なのだろうか?
武帝紀によれば、平原の単経や発干の陶謙と合わせて、高唐の劉備を
袁紹と曹操が協力して撃ち破った事になっている。

これを突き合わせると、高唐県令の劉備を撃ち破ったのは、
袁紹・曹操陣営の何某じゃないだろうかと思ってしまう。

どうでもいいが、この発干に駐屯した陶謙というのは、
徐州牧とは別人だよね?
徐州牧が発干なぞに駐屯するとは思えないのだけど。

244 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 21:56:03
>>243
賊軍=袁紹に属するものの誰かとはオレも思う。
陶謙の方はどうだろう?
たしかに発干?と思うけどそれ以外は特に矛盾しないと思うから、別人の可能性もあるね程度かな?

245 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/13(日) 23:22:53
考えたのは、別に同姓同名がいるってのと、陶謙の部下が援軍として公孫瓚の下に来たって事。
少なくとも、発干という記述が間違ってなければ、徐州牧陶謙その人ではないと思う。

まぁ、陶謙の危機に、田楷と劉備が駆けつけている事を考えると、
陶謙麾下の誰かってのが、可能性としては高いかな、と思う。
丁度界橋の戦いのすぐ後くらいで、公孫瓚が援助を欲していた時期だろうし。

246 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 17:50:28
『後漢紀』っていう本に、
陶謙と孔融の二人が献帝を洛陽に連れ戻そうとしたけど
曹操が攻めてきたので中止したと書いてるよ。
それも関係ありそう。

247 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 21:03:45
>>246
おお、ありがとう。
後漢紀というとニセクロさんが訳していたので、それを読んでみたが、
確かに、興平元年(194年)夏四月に、そういった記述があった。
興平元年というと、既に劉備が徐州に陶謙を救援し、豫州刺史として沛に入った頃だから、
高唐で対袁紹・曹操の最前線に駐屯していた頃とは少し違うように思える。

劉備は高唐で敗れた後、公孫瓚の別部司馬として功績を挙げ、
平原県令、平原国相を経て、田楷と共に斉に駐屯した後、徐州に行ってるんで、
高唐で敗れたのは192年の内だと思うんだよね。三国志の記述の位置もその辺りだし。
そうすると、この後漢紀の記述に関しては、あまり関係ないかなと思う。

ただ、どうやって献帝を洛陽に迎え入れ、更に迎え入れてどうするつもりだったのかというのが分からない。
当時は、曹操は既に兗州牧だし、袁紹も冀州牧。
豫州を通れば洛陽まで行けなくは無いと思うけど、南を劉表、北を曹操に挟まれた豫州を間に挟みながら、
本拠地から遠く離れた洛陽を維持できるとは思えない。
洛陽に戻す事そのものの政治的影響か何かを狙ったんだろうか?

248 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 21:08:23
あぁ、時期的に呂布の兗州強奪と重なるから、
それと示し合わせる事で、黄河以南から親袁紹勢力、
と言うか曹操勢力を一掃しようとしたって事かな。

249 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 21:12:47
と思ったら、時系列が逆だな。
陳宮の謀略自体は既に陶謙に告げられてて、それを見越して動いたが、
曹操の攻撃が予想以上に激しかったので支えきれず、計画が頓挫したとかか?

250 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 21:17:29
河内、河南方面には張楊のような勢力がいるから、献帝を中原に連行できれば親献帝勢力の団結を図り、反献帝勢力(特に曹操)を挟撃することになったかもしれない
問題は李カクたちが献帝連行を許すかどうか、ということだろう

251 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 21:38:57
>>250
この頃の呂布は張楊を頼っていたし、スタンスとしては反袁紹なのかな?

やはり、対袁紹大同盟を確固たるものとする為の処置という事なのだろうか。
ただ、曹操は親袁紹とは言え、袁紹の劉虞擁立には断固として反対したし、
献帝を陶謙らが押さえた場合、どう転ぶか分からんね。
案外、袁紹を見限るのかもしれん。

252 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 21:46:41
>>251
劉虞うんぬんというより、形勢を見て袁紹を見限る可能性が高いという感じじゃないかな

253 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 21:59:01
>>252
大義では無く、実利を判断基準とすると。
まぁ、あくまでifだし、そこまで知識も無いので、どう転ぶかはよく分からん。

254 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 23:04:58
>>253
大義で決めるような曹操なら、袁紹派でありながら献帝に近づき、しかも献帝を拉致してくるなんて真似はできないっしょ
貴方の言うようにIFだからどうとも言えるかもしれないけどね

255 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/20(日) 23:20:33
>>254
すまない。俺の言い方が悪かった。

当然、曹操も自分の利益になるように行動するとは思うんだけど、
その行動を大義で装うか、あからさまに利益の為に動くのかどうかって事が言いたかった。

反袁紹勢力が献帝を戴き、大義を掲げて結束を固めた時ではなく、
初めは袁紹に与すか或いは静観しつつ、袁紹の形勢如何で決めるような態度をとるだろうか、って事ね。

256 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/30(水) 01:34:57
190年代の群雄たちの争いを、袁紹、袁術のどちらかに与する勢力のものと見る意見がある。
袁紹と曹操、劉表の三者が盟を結び、公孫瓚、袁術と相対したのは記述から窺えるし、
陶謙が公孫瓚と協力体制にあったのも窺える。

だが、袁術と陶謙との間には、強固な繋がりは無かったように思える。
陶謙が死んだ時、劉備は袁術を後任に推したが、徐州の人士はこぞってこれを拒否し、
劉備に徐州を継ぐよう要請したし、陳羣も、徐州牧の就任は袁術との対立を生むと語ってる。
劉備自身、曹操を防ぐ為に徐州に入りながら、呂布に敗れた後は曹操を頼り、
その後はすぐに曹操と対立して袁紹に与するようになる。

この辺まで考えて思ったけど、もともと袁紹、袁術の両派の争いに単純化するのが無理があるんだろうと思う。
袁紹と曹操、曹操と劉表なんかも早期に関係がこじれてるし、
実際、袁紹、袁術の両者を中心に乱世が動いたのなんて、ほんの僅かな期間に過ぎず、
それすらも緩い協力体制に過ぎなかったのではないだろうか。
呂布も、袁紹の下を去った後も袁術を警戒してたし、どちらかに明確に協力してたわけではないしね。

だから、劉備も特別変節漢だったわけじゃなく、当時はあれが普通だったんじゃないかと思うね。

257 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 20:39:07
まあ、二袁の対立図式が成り立っていたのは、
反董卓連合軍が瓦解してから、
袁術が曹操に惨敗を喫して、
拠点を南陽から揚州に移すまでだよな。
それ以後は、どの群雄も自立して動いている。

258 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 22:30:21
>>256
確かに単純化しすぎの感はあるかもな
ただ、>>257のいう時期においては勢力図はおぼろげながらも2色に分けられるとは思うんだよね

おれが違和感を覚えるのは、李カクや袁術や楊奉を「勤皇派」と称する場合があることだね
彼らはもしかすると心から献帝を信奉していた者もいるのかもしれないけど、勢力や政治的スタンスの実態は「献帝を正統な皇帝として認めたうえで傀儡にして使い倒す」だろう
袁紹は「献帝を正統な皇帝として認めない」派なわけだが、これと漢王朝や皇帝への不忠は必ずしもイコールにはならない
一時期は「献帝は正統性がないし劉虞の方が徳高くて皇帝にふさわしい」と、漢王朝の権威回復につながったかもしれない策を実施しようとしているのだから
袁紹が董卓や袁術らとの対抗上否定したのは献帝であって漢ではない(名目上はね)

袁術にも袁紹にも、元皇帝を殺した董卓にも、自己都合で積極的に変節した曹操にも主張できる「勤皇の大義」はあったんだよ
(元皇帝を殺すのは前漢の夏侯嬰だってやっていること)
献帝を擁した者が「勤皇」なわけではない

言い換えると全員「勤皇」じゃねーんだから適切ではないだろ、ということ

259 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/30(水) 23:46:27
どんな内容にせよ、まずは自分で考えてみなければ、
誰かの主張を簡単に容れるべきではないだろうね。

260 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 00:31:05
実は昔から疑問に思ってる事がある。
学研の『歴史群像シリーズ「三国志下」巻』とか、他にも色々なものに、
魏延、呉懿の涼州への前進に関して、諸葛亮が建威、或いは祁山に出てこれを援護したという話がある。
しかし、これを証明するような記述は、寡聞にして知らない。

そこで少し考えてみた。
曹真の発した蜀討伐軍は230年9月に撤退しているが、この後で作戦が行われたとすると、
魏延、呉懿の攻勢は早くても10月頃だろう。
羌中への前進の後に行われた第四次北伐では、231年の2月に祁山を包囲している。
華陽国志に拠れば6月に撤退して、8月に帰還しているので、漢中祁山間の行軍は2ヶ月ほどかかることになる。
華陽国志の記述が、8月に李平を処罰した事に依拠しているとすれば、
1ヶ月強の行軍で行えたとも考えられるが、いずれにしても正月早々には漢中を出なければ、
祁山への到達を2月に行う事は難しいだろう。

つまり、魏延と呉懿が作戦を終えて漢中に帰還した後で第四次北伐を開始したとするならば、
彼らは遅くとも年内には戻らなければならない。つまり、最大でも90日ほどだね。
地図で大雑把に測定すると、漢中羌中間は6百数十kmなので、実際に行軍する距離はそれ以上、
恐らく700〜800kmほどだったと考えられる。往復にして1400〜1600kmくらいだろう。
里で言うと4千里くらいだけど、これは司馬懿の遼東遠征の片道とほぼ同じくらい。
司馬懿はこの行軍に100日かけてる。
司馬懿と魏延らの軍隊の規模の違い等を考えても、与えられた日数の全てを行軍に費やさねば難しい距離。
行軍距離(1400〜1600km)を日数(90日)で割ると、1日あたり15.6〜17.8kmになる。
軍隊の行軍としては無理な速度ではないが、流石に90日も連続して行軍できる速度ではないだろう。
仮に3日の行軍につき1日の休息を入れるとすると、88日の行程に行軍は66日、速度は21〜24km。
無理じゃあないが強行軍ではあるね。

261 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 00:36:51
続き

この作戦を、年内に全てが完了したと考えるから無理があるんじゃないだろうか?
むしろ、第四次北伐との連動で行われ、魏延らは漢中に帰還したのではなく、
祁山に向っている諸葛亮らと合流したと考えた方が、日数を考えると自然。
そうであるならば、魏延らの救援という目的ではないにせよ、
第四次北伐の為の諸葛亮の機動が、魏延らを援護するものとなり、
建威、或いは祁山に出たという話と一致させる事ができる。
しかし、そうなると、魏延らが昇進したタイミングが難しい。
督前部から前軍師への異動は、遠征の最中に行った場合指揮系統の混乱を招きそうだ。

262 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 01:18:22
>>258
袁術が勤皇って誰が言ってんのかなぁ、って思って検索してみたら、
中英のスレとか理不尽能力スレとかが引っかかった。
それは良いとしても、Wikipediaの李カクの項に堂々と書くのはどうなんだろうね。
あれは独自研究の範疇に入らんのだろうか?

263 :無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 01:50:08
>>262
あれは独自研究だろうねえ。
二袁の争いは勤皇派と反勤皇派の争いじゃないからねえ。
そもそも袁術は自分勝手に刺史や太守を任命して、
漢王朝の威信を失墜させている側だし。
袁紹寄りの劉表も李カクから官位を受けているし。

264 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 23:30:55
>>263
俺からしたら、Wikipediaにああいうのを載せようと考えるのが理解できんけどね。


劉備は、徐州を失陥するまでは公孫瓚を助ける為の行動に終始してたんじゃないかと思ったけど、
よく考えると、徐州を得た時点で、陳登が使者を袁紹の所に派遣してるし、
曹操が劉備を鎮東将軍にしてるんだよね。
自発的にせよ、徐州の豪族らの主導にせよ、袁術と相対し、袁紹らと結ぶ事を選んだって事かな?

265 :無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 23:37:20
劉備が得た鎮東将軍って、曹操の前任官なんだよね

266 :Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 23:51:18
>>265
そうだっけ、と思って武帝紀を読み直したら、建安元年の6月に鎮東将軍になってたね。
劉備が徐州を得てから1年半、呂布が劉備の元に逃げてから1年くらいだね。
曹操が大将軍になったのが9月だから、劉備の鎮東将軍就任もこの辺だろう。

何らかの策動の結果とも考えられるかもしれない。

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